シャドーとは、その言動や在り方で、貴方にモヤモヤをもたらす人。
気にしないようにしても、なぜか目についてしまって、心をザワザワさせる人。
心理学の師匠、故長谷川泰三氏は、かつてシャドーについて、こう説明した。
「シャドーには、3つのタイプがある。
貴方と真逆な人、貴方と似た人、そして貴方が興味ある人。」
…それって、周りにいる人、全部のことじゃ…(^^ゞ
私たちはみんな、自分の中にある、好ましくない側面を見たくない。
だけど、どんなに無視しても、打ち消しても、それはそこにある。
あるものをないことには、できない。
そこでその見たくない側面を、外側の誰かに投影してしまうのだ、無意識に。
そして、いやね、あの人、はしたない…とか、心根が貧しいのね…とかジャッジするわけだが、それは実は自分自身の感情だったり、こだわりだったりする。
はしたないのも、心根が貧しいのも、相手ではなくて自分なのだ。
その証拠に、他の人は、同じ人を見て、全く違う見解を持つ。
自分の中にあるものの投影。
だから同じ人物なのに、愛にあふれた人だと見る人もいるし、底意地の悪い人だと見る人もいる。
全部自分なんだよ…。
何度も言われたし、何度も聞いたし、何度も読んだ。
だけどそれを知識として知っていることと、そうなんだ!…とお腹の底から納得することとは、似て非なるもの。
たとえば、Aさんという人物を、私はベースに怒りがあって、怖い人だと思っている。
なのに、他の人は、別に怖くはない、多少子どもっぽいだけだと言う。
認識が全然違うのは、二人がそれぞれ自分の中にあるものを、Aさんに投影しているから。
だから、ザワザワやモヤモヤをもたらす人が現れたら、それはチャンス。
自分のことを知るチャンス。
無意識の底に押し込めて、ないことにしてしまった、自分の真実を知る絶好のチャンス。
今、私は自己認識について再び学んでいる。
そこでシャドーについて、新しい見解を得た。
私たちは生きるために、いくつもの選択をしてきたが、選んだものがあるということは、切り捨てたものもあるということだ。
その切り捨ててきた選択肢は、消えてなくなったのかというと、そうではなくて、ちゃんとそこにある。
自分の影として、常に寄り添っている。
そう、これもまたシャドーなのだ。
そして折りに触れ、耳元でいろいろ囁いて、私たちを惑わせる。
でもシャドーは消し去ってしまうべきものではなく、自分の一部として、統合していくもの。
陰と陽、両方があって全体となるように、光と影はどちらも必要なのだ。
影の部分が現れてきたら、嗚呼、こんな汚い感情、持っていたくない!…と全否定するのではなく、確かにあるな~~~、嫉妬したり、羨んだり、妬んだり、拗ねたり、非難したりする心…と、その存在を認めてあげればいい。
だって、それは私たちの一部なんだから。
私たちはどこまで成長しても、一点の曇りもない、清廉潔白な人になんかなれないのだから。
…ただね、影って、影というくらいだから、とても見えにくい。
そこにあるような気がしても、もやもやとした輪郭だけで、実体を把握できない。
おまけに、本当は見たくないなんて本心もあったりするから、よけい分からなくなるんだろうなぁ…。
影との対話、一進一退中。