人間関係のいざこざや人の苦しみは、今ではなく過去の記憶や未来への不安に意識を向けているからだと学んだ第七章。
今に意識を戻すと、ほんのわずかではあっても、心や思考に空間が生まれる。
さて、その空間とは?
これもまた過ぎ去る
よいことも、悪いことも、全てのことは過ぎ去っていく。
諸行無常だ。
全ては一時的で、移り変わっていく。
だから今手中にあるものも、どんなにしっかり握っていたとしても、いつかはこぼれ落ちていく。
そのことを分かっていれば、必要以上に執着しなくてもよくなる。
そういうものなのだ、それが宇宙の理なのだと思えば、無くさないように、失わないように抱え込まずに、それが手中にある今を、精一杯楽しめばよいのだ。
これもまた過ぎ去るだろうという認識は、執着を薄める。
すると人生に新しい次元、内なる空間が開かれる。
物事や形に囚われていた意識が解放されて生まれるのが、内なる空間である。
たとえ悪いことが起こっていても、これもまた過ぎ去るであろうと思えば、静寂と平安に満たされる。
様々な出来事、現象、思考、感情の起伏や苦痛の周りにさえも空間が生まれ、平安がにじみ出る。
すべては無常、だがあなたの中の永遠なるものだけが、無常を無常と認識できる。
たとえ前景で何が起こっていようとも、背景に内なる静寂があると感じとれれば、それが空間の意識である。
テレビの弊害
テレビを観ている間は、リラックスしているように思える。
だがそれは単に思考が止まっているだけであって、内なる空間を生み出すこともなければ、いまに在ることもできない。
視聴している時は、テレビの思考と繋がれてしまうからだ。
思考は止まっていても、テレビ画面からイメージや思考を吸収し続けていて、受け身でぼうっとした極めて影響されやすい状態になる。
よってテレビは世論操作に利用される。
またテレビ視聴には依存性があり、なかなかスイッチをオフにできない。
面白いと思っていなくても、だらだらと見続けてしまうのだ。
内なる空間の認識
ささやかなことに目を向ける。
たとえばトカゲの滑らかな動き。
対象が小さくて細やかであればあるほど、脳の容量に空きができる。
雑音が減るので、静かでいられる。
そうすれば内なる空間の存在を、わずかでも感じられるのではないだろうか。
忙しい思考から離れ、賑やかなテレビから離れ、空を見上げ、風を感じ、小川のせせらぎに耳を傾ける時、平安と静寂が訪れる。
何も考えていない。ただ美しいと感じているだけ。
その瞬間は、内なる空間が現れている。
思考は精神的な雑音となり、内なる静けさをかき乱す。
ただ認識する
私たちはなにかを認識すると、すぐにラベルを貼って、解釈し、比較し、好悪や善悪を決めたがる。
ラベルを貼るとは、つまりそのものの名称で認識すること。
緑の樹に「木」という名称で認識する。
ラベルを貼ったことで安心して、もうその対象を観察しない。
トールが提案した実験をしてみた。
2分間、身近なモノを観察する。思考を入れず、ラベルを貼らず、ただ観察する。
簡単そうだが、やってみるとなかなか難しい。
観察対象は私の長財布。
ただじっと見ている間も、頭の中にはめまぐるしく思考が飛び交う。
思考を追い出そうとしても、すぐ戻ってくる。
財布の色を見ていたのに、すぐそこにピンクだとか、白からのグラデーションとか言葉のラベルを貼りたがる。
ただただピンクを見ていることができない。
音についても同じだった。
聞こえてくる音に、バスの音だとか、耳鳴りの音だとか、すぐにラベルを貼ってしまう。
だがそれでも思考を停止させようと試みると、不思議な静謐さが生まれるとトールは言う。
それが内なる空間だと。
私にはできなかったが・・・。
呼吸
思考の流れを中断して、内なる空間を意識する簡単なメソッドは、呼吸を観察することだ。
瞑想法やマインドフルネスやヨガでも、呼吸は大切とされている。
呼吸は誰もが無意識にしているのに、普段は意識を向けていない。
だが自分がどんな呼吸をしているのか、吸ったり吐いたりしている時に体がどう動いているのか、どんな感覚なのか、気分や気持ちはどうなのかを観察している間、思考は止まる。
それは思考から関心を引き離して、空間を作ること。
呼吸を観察すると、いやおうなしに今この瞬間に「在る」ことになる。
考えながら、観察することができないからである。
甘い物、酒、たばこ、テレビ、インターネットなど、依存傾向のある脅迫的な衝動が起こったら、立ち止まって三回、意識的に呼吸してみるといいそうだ。こうすると気づきが生じる。
そして脅迫的な衝動そのものを、自分の中のエネルギー場として観察する。
それを実行したい肉体的・精神的欲求そのものを意識して感じる。
それからまた数回、意識的に呼吸をすると、脅迫的衝動は消えるかもしれない。
なるほど、次にソリティアがしたくなったら、実践してみよう。
呼吸は内なる身体への気づきも促す。
内なる身体は、生命感と言い換えてもいい。
人はこの生命感を感じられない不安を、代替物でごまかそうとする。
ドラッグ、大音量の音楽、スリル、危険な行動、セックス、そして親密な関係。
だがたいていは失望に終わり、不安は払拭されない。
そんな時こそ、意識的な呼吸をして、内なる身体に染み渡っている微細な生命感を感じてみよう。
内なる空間と宇宙空間
広大な宇宙も人体も、物質と空間からできている。
量子力学の世界では、人体は固体ではなく、99.99%は空っぽの空間。
つまり形である肉体は、本質的には形ではない。
肉体は内なるスペース、インナースペースへの入り口と言ってもいい。
内なる空間に形はないが、生き生きとした生命がある。
その空っぽの空間は、充実した生命で、そこから全てが生じる源なのだ。
思考や言葉は形のある世界に属しているので、形のないものを表現できない。
形である身体を越えるためには身体に入っていき、自分が「身体ではない」ということを知らなくてはならない。
どんな時も生命感を感じていよう。
生命感を感じている自分と、外の世界に対処している自分は、同時に存在できる。
静寂
思考は形だが、静寂に形はない。
脆弱に気づくとは、静かに停止すること。
静かに停止することは、思考抜きの意識でいること。
静寂にある時ほど、深い本質的な自分自身でいる時はない。
思考を止めて、静かに停止している時、人は無条件の、形のない、永遠の意識になる。
Chikakoの感想
第八章を読みながら、なんども思い出したのは、レイチェル・カーソンのセンス・オブ・ワンダー。
「対象物に名前をつけた瞬間、感覚も思考も閉ざされる」と彼女は言う。
つまりチューリップを見てチューリップだな…と認識すると、観察や洞察はそこで止まる。
だってチューリップなんだから。
トールの言う「認識」は、驚きを持って対象を観察した先に現れる、内なる空間のことではないだろうか。
そこではほんの一瞬であっても、思考が止まっていて、ただただその美しさ、不思議さ、畏敬の念に満ちている。
第八章のポイントは「内なる空間が静かであればあるほど、人は思考ではなく、存在の深さから世界に関わるようになる」。

