岡部明美さんは、LPL(心理学)のカウンセラー。
お名前はずいぶん前から存じ上げていたけれど、著書を手に取ることはなかった。
今回、読んでみようと思い立ったのは、…やっとタイミングが来たということなのか。
【私に帰る旅】のあらまし
小説ではないので、ストーリーではなくあらまし。
この本は、バリバリのキャリアウーマンだった岡部さんが、いかにして心の探求に乗り出していったのか、そのきっかけと軌跡を時系列に沿って著している。
岡部さんは30半ばで、出産を機に人生の大転機を迎える。
産後とてつもない頭痛に悩まされ、検査の結果、脳腫瘍と水頭症を併発していることが判明。
そのまま緊急手術となり、生死の境をさまよう。
術後の回復も遅く、体を動かせないので、天井だけを眺めて過ごす日々が延々と続く。
なにもできないのに、膨大な時間だけがある。
そこで考える。横たわったまま、ひたすら考える。朝から晩まで、来る日も来る日も。
私はなんのために生まれてきたのか。
人はどうせ死ぬのに、なぜ生まれてくるのか。
自分の人生の目的はなんなのか。
長い入院の末に退院すると、赤ちゃんと一緒の生活が始まる。
岡部さんは健康的な食生活や生活習慣を心掛け、ホリスティック医療にも目を向け、これまでの自分を追い込むような生き方を改めていく。
だが定期検査で脳に再び影が現れ、さらに精力的に様々なものを試していくが、翌年も、その翌年も、影は消えない。
こんなに一生懸命やっているのに、なぜ?
私の方向性はなにか間違っているのか?
そこで初めて、心と体の関係に目を向ける。
心と体は密接につながっていると言うけれど、それはこんなにもはっきり病気として現れるものなのか。
体が私に訴えかけているのは、いったいなんなのか。
深い心の海への探求が、始まった。
【私に帰る旅】が与えてくれたもの
あらましだけを読めば、岡部さんのライフヒストリー、自伝のように見える。
だけど、彼女が歩いてきた道筋にはいくつもの気づきがあり、それが人という存在の本質を露わにしていく。
まるで玉ねぎの薄皮を剝くように、じりじりと核心に迫っていくのだが、剥いても剥いてもその下に新たな層が顔を出す。
いったい心の探求とは、どこまで行ったらいいのだろう。
果たしてゴールはあるのだろうか。
そのゴールに到達した人はいるのだろうか。
【私に帰る旅】を読んでいて、何度も既視感を覚えた。
岡部さんが狂おしいまでに求めていたことは、私が10代の頃から知りたいと切望してきたことと、ほぼ同じなのだ。
私も知りたかった。
なによりも自分のことが。
なぜこんな風に感じるのか。
この時代、この国、この家族、この環境を選んで、生まれてきたのは、なぜなのか。
私は何をするために生まれて、今、ここに存在するのか。
若い頃から、生きている実感が希薄だった。
瑞々しい感情のほとばしりを感じてみたい。
たとえば人は私の文章が好きだと言ってくれるけれど、私にとって書くことは自然の営みの一部で、特に頑張っているわけでもない。
人が良いと言ってくれる文才を、私はどこから携えてきたのか。
空や雲や風や陽光や動物や鳥や花に、こうも親しみを覚えるのはなぜなのか。
いろいろな”なぜ”が、未解決のままぶら下がっている。
最近では、死んであっちの世界に行くまで分からないのかもしれない…と諦めかけていた。
だけど、もしかしたら、答えが見つけられるかもしれない。
自分に帰ることで。
胎児と宇宙戦艦ヤマト
人の妊娠期間は10カ月。
その短い期間に、胎児はひとつの細胞からどんどん分化して、80億年の進化の過程をたどり、人の形になる。
岡部さんは、それがとても不思議だと言う。
この記述を読んだ時、私は宇宙戦艦ヤマト2199を思い浮かべてしまった。
地球の放射能を除去するような技術を擁するイスカンダル。
まだ太陽系すら出たことがない地球の戦艦をわざわざ呼び寄せなくても、コスモリバースを届けてくれてもよかったはず。
だがイスカンダルの皇女は言うのだ、「コスモリバースを稼働するには、地球の誕生から今までのすべてを知るエレメントが必要だった」と。
そのエレメントとは、他でもない”人間”。
人こそが、地球の歴史のすべてをその体内に記憶として持っているエレメントなのだ。
胎児も、進化の全課程を表わしながら、人になる。
なんだか似ていると思うのは、こじつけが過ぎるだろうか。
宗教観とスピリチュアリティ
宗教という言葉に、アレルギー反応を起こす人は多いかもしれない。
私もそのひとり。
宗教の匂いがすると、できるだけ速やかに距離を置きたいと思ってしまう。
でも一体宗教の何をそんなに警戒しているのか、深く考えたことはない。
岡部さんもいわゆる”宗教”には、関わりたくなかった。
だけど親鸞やブッダやキリストには、並々ならぬ興味がある。
ある日、新興宗教に勧誘されたことより、自分の中に存在する矛盾に目を向けてみた。
そして導き出した答えは、宗教という枠組みや組織を通さずに、宇宙の真理や真実や道といったものと、直接繋がりたいということ。
この宇宙を創造し動かしている偉大なる何者か、宇宙の根源的な実在、永遠の存在。
昔から、人類の中でもほんの一握りの人たちが、この真理を追い求めてきた。
でもその他大多数は、そんなことに興味もないか、知りたいと思ってもそこまでの情熱は注げないか、道半ばで諦める。
自分の全てをかけてでも知りたい・・・、岡部さんの熱い想いが文脈から伝わってくる。
私は、おそらく心の深い部分では、”善悪の彼岸”にある、美しきもの、貴きもの、聖なるもの、平安なるものを求めて生きているのだと思う。私はきっとそこに辿り着きたくて生きている。しかし、そこに辿り着くまでに、私はどれほどの愚かさを重ねて行くのだろうか。迷いや失敗、罪や無軌道や裏切りでさえ、そこに辿り着くまでに通らなければならない道だったなんて思える日がいつか来るのだろうか。
【私に返る旅】第三章より
埋まることのない淋しさ
なにをしても埋めることのできない淋しさがある。
それは対象があれば満たされる淋しさの、さらに向こう側にある。
大好きな人が一緒にいてくれれば、優しい言葉をかけてくれれば、愛されていることを実感させてくれれば解消する淋しさは、表面的なもの。
存在の空(くう)とでも呼べばいいのか、なにを持ってしても満たすことのできない、根源的な淋しさが人にはある。
人はひとりで生まれ、またひとりで去って行くからであろうか。
私には家族がいて、同僚がいて、友人もいる。
だけど心の奥底に、時々、なんとも形容しがたい”空”を認めてしまう。
今まで言語化できなかったけれど、同じように感じている人がいると知り、深く安堵した。
心の深みに潜る
6章「心という深い海」が、おそらくこの本で岡部さんが一番伝えたかったことだと思う。
浅い川は川底までよく見えて、水面も揺れるので、流れていることがよく分かる。
だが深い川は、底まで見通すことはできず、水面も滑らかで、流れているのに静止しているかのように見える。
心の探求も、浅いところなら、問題も見つけやすいし、解決も比較的簡単かもしれない。
だが心というものは、そんなに浅い表面的なものではなく、底知れない深みの中に自分でも知らない様々なモノを内包している。
その深みにダイブしていくのは、とても怖い。
なにが出てくるか分からないし、本当は認めたくない醜いモノが隠れているかもしれないから。
心の作業は、脆さや弱さの奥にある、やわらかなものや、繊細なもの、温かいもの、美しいものに触れていくプロセスだと、岡部さんは説く。
そう、私もそこに触れたい。・・・怖いけれど。
必然ともいえる人との出逢いがあり、彼女をガイドとして、岡部さんは心の深みに果敢にダイブする。
そして子どもの頃は確かにあったのに、どこかに置き忘れてきてしまった心の柔らかさや繊細さを、徐々に取り戻していく。
6章は大切な章。繰り返して読んだけれど、私にはまだ消化できない部分もあり、うまく文章にできない。
なにか感じるモノがあった方は、是非、手に取って、ご自身で読んでみてほしい。
Chikakoの感想
私はたくさん本を読む。
たいていの本は面白い。
それで十分なのだけれど、ごくたまに魂を揺さぶられるような本に出逢う。
私にとって、とても重要な何かが書かれている・・・と、ピンとくるのだ。
そういう本は、アンダーラインを引き、付箋を貼りながら、何度も繰り返して読む。
【自分に帰る旅】もまさにそんな1冊で、すでにマーカーだらけ。
こんな本は、10年程前の【嫌われる勇気】や、一昨年読んだ【ニュー・アース】以来かもしれない。
読み込むほどに、深みを増す。
岡部さんの自分に帰る旅は、私の心の旅にも、道しるべのような灯りになりそうだ。
世界は、生にあふれているかのように見える。そして、誰もが生きることを考えている。しかし、生の輝きを見る意識だけでなく、死を眺める意識というのも、人生の深さや、真の喜び、この世界の美しさに深く触れていく意識の水路なのではないかと思える
【私に帰る旅】第5章