2019年夏、この本が店頭に並んだ頃から、ずっと意識の端に引っかかっていた。
何がそんなに気になるんだろう・・・。
ああ、タイトルだ。
普通ならば【僕は線を描く】のはず。
なのに【線は、僕を描く】とは?
同じ単語なのに、語順と主語が違うだけで、こんなにも印象が違う。
そして後者のほうが、圧倒的に不安定で強いインパクトを残す。
【線は、僕を描く】のあらすじ
ひょろっとして覇気がなく、存在感も薄い青山霜介は大学1年生。
ガラスの箱と称する自身の殻に閉じこもり、外の世界を遠くから眺めるようにひっそりと生きている。
ある日、青山くんは、展覧会の飾り付けのバイトにかり出される。
そこで偶然出会った好々爺と、控え室で弁当を食べた。
だがそのおじいさんこそ、日本を代表する水墨画の大家、篠田湖山だった。
箸の使い方がきれいだという理由で、湖山は青山君を気に入り弟子にすることに。
おまけに孫の篠田千瑛と来年の湖山賞をかけて対決するお膳立てまでしてしまう。
水墨画のすの字も知らない青山くんは、果たして絵を描けるようになるのか?
そもそも水墨画という、老人の趣味みたいな世界に興味を持てるようになるのか?
突拍子もない幕開けから、物語が始まる。
青山くんは大学にこそきちんと通っているが、何をしたいとか、何をめざしたいとか、彼女が欲しいとか、キャンパスライフを謳歌したいとか、学生らしい欲がまるでない。
ただ息をして、時が過ぎるのを見ている・・・そんな感じ。
つまり生きている実感が乏しいのだ。
彼がガラスの箱に閉じこもるようになったのは、17歳の時。
事故で両親が突然亡くなってから。
大切な人がいなくなってしまった事実に向き合えないまま、可もなく不可もなく、周りとの繋がりを極力持たず、かげろうのように生きてきた。
別に大学に行きたかったわけでもないが、押し出されるように付属高校からエスカレーター式の学校へ入学。
身を寄せていた叔父の家からも出て、一人暮らしを始める。
友達だって、昼でも夜でも真っ黒なサングラスをかけた古前くんと同じゼミの川岸さんだけ。
篠田湖山の指導の下、初めて筆を持った青山くんだったが、ただ一本の線を引く・・・その単純な行為がどれだけ奥深い所作であるかを少しずつ悟っていく。
筆に墨をつけて、絵を描く。
その一文を、著者砥上裕將は4~5ページもかけて描写する。
たったそれだけのことを、どうしてこんなに膨らませることができるのか。
しかもその描写が、絵を替え、人を替え、何度も何度も登場するのだ。
そして知らず知らずのうちに、私は水墨画という知らない世界に引きこまれていく。
作者直筆©砥上裕將
水墨画を通して自己の宇宙を見る
水墨画は、春蘭に始まり春蘭に終わる。
春蘭は初心者の導入課題だ。
墨の濃淡、筆に含ませる墨の量、線の太さ、力の入れ具合、スピード感、水墨画の最初の基本が春蘭に詰まっている。
弧を描く葉のしゅっとした線。
夏休み、青山くんは自室にこもり、朝から晩まで、ひたすら線を引いた。
湖山先生は、「花に教えを請え」と言う。
画題を忠実に写し取るのではなく、花を通して自分の中の宇宙を見ろ・・・とも。
だがそれは一体どういうことなのか。
外の現象ではなく、自身の中の宇宙を見る。
描くということは、自分の存在を、自分の命を表すこと。
心とはなにか、自己とはなにか、在り方とはなにか、言葉では説明しづらい内面を、果てしない葛藤を繰り返しながら、登場人物たちは掘り下げていく。
水墨画という、一見地味な芸術を通して。
千瑛は言う。
「あなたはもう一人じゃないわ。
語らなくても、描くものを通して、私たちはあなたを理解できる。
感じて、信じていられる。」
Chikakoの感想
この小説は、百聞は一見にしかずの逆をいく。
100の言葉を連ねるよりも、1回見るほうが理解がはやいのに、言葉だけで絵を表現していく。
そしてそれが読む者の脳裏にありありと浮かぶ。
青山くんの絵に向かう姿勢も、描き方も、作品も、ちゃんとイメージできるのだ。
これはそうとうな力量が要求される。
原田マハさんも絵画をテーマにした小説を得意とするが、誰にでもできることではない。
しかも・・・一般的にはあまり馴染みがない水墨画で。
水墨画と聞いて、普通に思い浮かべるのは長谷川等伯とか雪舟とか、歴史の教科書に載っているような人たちだ。
でも水墨画は、何百年も前の古典芸術ではない。
時代にあわせ、少しずつ変化しながら、現代まで脈々と受け継がれてきた。
特に目を引くのが、余白の重要性。
シンプルな絵と余白。
水墨画は余白で語る。
減筆という技法だそうだが、何も描かない余白を置くことで、絵そのものの力を引き出す。
これって・・・断捨離にも通ずるね。
モノを減らして空間を増やすことで、空間そのものがモノの美しさや存在感をさらに際立たせる断捨離に。
読み終わって初めて、タイトルが「僕は線を描く」ではなく「線は、僕を描く」になった意味が理解できる。
砥上裕將さんご自身も水墨画家。
水墨画の深い知識や洞察は、やはりその世界をよく知る人ならではだと思う。
目の前にないものの鮮明なイメージを沸き立たせる、小説の醍醐味を存分に堪能させてくれる1冊だった。
お正月休みにいかがですか?
【線は、僕を描く】は、ブランチBook大賞、2020年本屋大賞第3位、第59回メフィスト賞受章。
少年マガジンで漫画化もされている。(作画:堀内厚徳)