自分の正しさを証明したって、誰もしあわせにはなれない

コミュニケーションの基本は、相手と自分は違うとしっかり認識することだと思う。

自分にとっては、自分の意見や考えが一番正しい。

でもそれは相手も同じこと。

それぞれの意見が似通っていれば問題はないけれど、異なっていたらどうする?

自分の方が正しいことを、理をつくし、言葉を尽くして証明する?

親切にも、相手が間違っていることを気づかせてあげる?

 

貴方が立場的に上であれば、相手は意見を引っ込めるだろう。

表面的には一件落着。

貴方は自分の意を通して満足かもしれないが、実は相手は全然納得していない。

仕方ないと忖度しただけだから。

立場的に同等であれば、お互いの意見を主張するだろう。

それだって、性格のあっさりしている方や争いを好まない方が、折れることが多い。(あと声の小さい方)

でも相手の主張に感化されて、趣旨替えしたわけではない。

日本人特有の和を重んじる処世術を発動しただけだ。

一応の決着を見たからといって、これでコミュニケーションが成立したと思うのは大間違い。

貴方と相手は、全然分かり合っていないどころか、相手は苦々しい想いすら抱いてしまう。

 

まず大切なのは、私の想いと相手の想いは同じではないと認識すること。

DNAも違えば、育った環境も、見聞きしてきた事柄も、経験も、教育も、思考の傾向も、価値観も、経済状況も、趣味も好みも、なにもかも違う。

どんなことに恐れを抱き、どんなことに喜びを見いだし、何を失いたくなくて、何を大事にしたいのかも違うのだ。

そしてやっかいなことに、言葉の定義からして違うことすらある。

 

そんな困難なシチュエーションで、私たちは日々、コミュニケーションを試みる。

それは行き違いも起こるよね。

それでも、どこかで分かり合いたいと願っている。

 

だったら白黒つけることを、・・・正しさの証明を辞めてみたらどうかしら。

相手の非や間違いを明らかにし、自分が正しいことを証明したり、相手を言い負かしたりすれば、その時は鼻高々で誇らしくて気持ちがいいだろう。

だけど貴方は相手を失う。

試合に勝って、勝負に負けるってやつね。

正しさを証明しても、誰もしあわせにはなれない。

 

どっちが正しくて、どっちが間違っているかなんて・・・、本当はどうでもいいことなのかもしれない。(犯罪行為は別ですよ)

特に親しい間柄の人や、本当は仲良くしたい相手と、強引に白黒つける意味って、あるのかな?

それって、マウンティングの一種じゃない?

 

『私はこう思うし、これがベストだと考えるけれど、貴方は違うかもしれないね。

貴方の想いや考えを聞かせてください。』

コミュニケーションのスタート地点はこれにつきる。

そして相手の意見を聞いている時は、どうやって反論しようかと考えながらではなく、耳をダンボにして聞く。

耳だけじゃなく、心も使って聴く。

お互いの意見は一致しないかもしれないけれど、それでも否定はしない。

『そうなんだね、貴方はそう考えるんだね。』

このリスペクトこそが、コミュニケーションの基本だ。

違うこと = 間違い ではない。

意見が違う人 = 敵 でもないよ。

自分の意見は、唯一の正解ではないと知っておこう。

聴いて、聴いてもらって、どっちもアリと認める所から、真の相互理解が生まれると、私は思うんだな。

 

この記事を書いた人

Chikako

金沢市在住。バラとコーヒーとコーギーが好き。
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