私たちの毎日は、選択の連続だ。
就職や結婚など人生を左右する重要な選択から、コーヒーと紅茶どっちにしようとか、今日のアクセサリーはゴールド、それともシルバー?とか、大勢に影響のない小さな選択まで。
必ずしも自分の意志で選んだものばかりではないかもしれない。
親の意向があったり、世間の目があったり、損得勘定があったりで、不本意な選択もあっただろう。
それでも、そのひとつひとつを選択してきた結果が、今の自分なのだ。
なにかを選べば、同時にほかの選択肢を切り捨てる。
選ばなかったものたちの中に、本当は魂が切望していた選択があったのかもしれない。
あの時、あっちを選んでいれば…。
だけど、そんなタラレバを論じても、時間を巻き戻せるわけではないので、意味がない。
ただ切り捨ててきた無数の選択肢を、なかったものとするのではなく、ああ、あの時、選ばなかったんだ…と、ちゃんと認めておくのは、自分をトータルに見るためにも、悪くないと思う。
生まれたばかりの赤ちゃんは、お腹がすいた、抱っこして、おむつが濡れて気持ち悪い…と、自分の要求をシンプルに表す。
お腹が空いたけど、お母さんが忙しそうだから、今は泣くのを我慢しよう…とかいう選択肢はない。
お腹がすいた → おっぱい。以上!
だけど成長するに従って、私たちの思考や感情はどんどん複雑となり、遠慮したり、我慢したり、バランスを考えたり、人の目を気にしたり、虚勢をはったり、意地をはったりして、本当に望んでいることやものでも、切り捨てたりする。
…だけど、きっとどこかに、その時の想いは残るんだよね。
そんな選択が、山ほどある。
小さいものも含め、1時間に10回、なんらかの選択をしてきたのだとしたら、
生きてきた日数 × 起きていた時間 × 10。
私の場合、327万回の選択をしている。
時間によっては、1時間あたりの選択数は、もっと多いと思うから、もしかしたら500万回くらいいっているのかも…。
その500万回の選択の集大成が今の私なんだ…。
そして今日の選択が、明日の私を創る…。
昼休みに草むしりをするか、昼寝をするか。
アイスクリームを食べるか、やめておくか。(ダイエット中)
晩御飯を、肉じゃがと焼き魚にするか、ハンバーグにするか。
夜、ブログを書くのか、テレビを見るのか。
入浴剤は、ミントにするのか、ローズにするのか。
11時に寝るのか、12時に寝るのか。
相手のアラを探すのか、可能性にフォーカスするのか。
相手を責めるのか、自分自身にベクトルを向けるのか。
昔の傷をなめて被害者面をするのか、自分の本心を見る機会とするのか。
ひとつひとつの選択が明日の私を創るとすると、さて、私はどっちを選びたいのだろう。
その結果として、なにを切り捨ててもよし…とするのだろう。
ちこちゃんに言わせると「ぼーーっと選んでんじゃねえよ!」ってとこかな。