10年前の4月、私はぐちゃぐちゃだった。
対外的にはなんとか体裁を保っていたが、内側はもうドロドロで手の付けようがない状態。
毎朝、目が覚める度に、ああ…今日もまだ生きていたと、ため息をつくような、そんな日々を送っていた。
私はいわゆるアダルトチャイルドで、親の厳しいコントロール下で育った影響から、いつまでたっても脱却できずにいた。
子どもの頃は、いつも親の顔色を窺ってビクビクしていたのに、外ではそんなことはおくびにも出さない優等生。
すごいわね、えらいわね…と言われることが、当時の私の至上命題だった。
なぜなら、親がそんな子どもを持つことを望んでいたから。
親を喜ばせたいと、どんな子も多少は思うだろうけれど、私の場合はそれが度を越していて、生きる理由にすらなっていた。
それなりに愛されてはいたのだろうが、親はいつも厳しくて、叱ってばかり。私は愛されている…と実感できなかった。
大人になって結婚して家を離れても、その癖は抜けない。
なにか選択を迫られる時、常に頭の中には親がいて、どっちを選べば、より喜んでもらえるかが選択基準だった。
自分の人生であって、自分が生きている実感がまるでない。
親の望み、親の好きなモノや事、親の奨励する行動は分かっても、自分の望みや、好きなモノやコトや、やりたいことは、分からない。
そんな私が親になり…。
人は自分が育てられたように、我が子を育てる。
私もまた、子どもの自主性を尊重するようなことを口では言いながら、がっつり子どもをコントロールした。
口に出さなくても、目で、態度で、オーラで。
そんな子育てが上手くいくわけがない。
幸いにも長男は、イヤなものはイヤとはっきり言える子だった。
私の鬱陶しい干渉を、全身全霊で嫌だと言った。
反抗期は壮絶だった。
毎日、早く死んでくれや…と言われ、親の仇を見るような目でねめつけられ、私は毎日泣いていた。
父親たる夫がガツンと叱ってくれればいいのに…、長男が私を声高に責める時、夫はいつも仕事でいない。
辛くて、悲しくて、情けなくて。
でも私には娘もいるし、今は死ねないと思った。
自分の親とも、子どもとも、夫とも、愛のある関係性を結べなかった。
どこまでも続く、暗い長いトンネルの中で、心理学の師匠と出会う。
車椅子のカウンセラー、長谷川泰三氏は、「よく死なずに頑張ってきたね。」と私をねぎらってくれた。
そんなことを言われたのは初めてだった。
私はちゃんとした生活を送る、しっかりした社会人だったから、私を見て、危ない…と感じる人はまずいない。
だけど長谷川氏は、私のように外側にほころびのない人ほど、危ないんだと教えてくれた。
ある日、突然、ポキンと折れるから…と。
師匠の助けを借りて、私は自分の苦しさから逃げるのではなく、向き合うことにした。
これまで長いこと、胸の奥深くに封印していた、様々な感情をほじくり返し、その痛みをちゃんと味わい、そして昇華させる…その果てしのない作業を繰り返した。
その半年後、今度は断捨離の提唱者・やましたひでこ氏と出会う。
やましたさんは、目に見える世界を整えることで、目に見えない世界、つまり心の中を調えることができると教えてくれた。
すべては相似形だと。
心理学と断捨離を両輪として、私の再生が始まる。
それは47歳にしてやってきた、私の遅すぎる反抗期でもあった。
そして10年の月日が流れた。
私はたくさんのモノを手放した。
哀しみも恨みも悔しさも。
こうあらねばならないという植え付けられた観念も、自分自身を卑下する心も、見捨てられるんじゃないという恐れも。
昔の私は、世界は敵ばかりだと思っていた。ここには見方も仲間もいない。
だからしっかり防御しなければ!
これ以上傷つけられないように、堅固なバリアーで自分を守ろうと躍起になっていた。
だけど、再生のプロセスの中で、私は知った。
人は関係ない…と。
私の苦しみには確かに人が介在していたけれど、彼らは単なる役割を演じる人であって、問題は私を傷つける人たちではなく、私の在り方だった…と。
全ての出来事は、とうの昔に忘れてしまった本当の私の姿、何が好きで、何が心地よくて、何を見たくて、何を感じたくて、誰と過ごしたくて、何のために生まれてきたのか…を思い出すための長い道のりだったのだ。
そう、私のベクトルは、常に人に対して向いていた。
全て悪いのは相手。全て間違っているのは相手。全て誤解しているのは相手。
そのベクトルが180度反転して、自分に向いた。
あなたは、なにもの?
そうして、私は少しずつ、少しずつ、カメの歩みのようではあったけれど、思い出してきた。
私は何が好きなのか。何をしたいのか。自分の魂の望みは何なのか。
「Chikakoさんの音」と表現してくれた人もいる。
音は波長であり、周波数。
私本来の音、私が完全にリラックスでき、私であることを恐れない音。
今、私は怖いものがない。
失う恐怖と言ってもいいかもしれないが。
しがみついていた人間関係や肩書や立場を、勇気をもって手放してみたら、恐れも一緒になくなった。
手放し難きを手放せば、得るべきを得る(老子)
手放し難きを手放して、私が得たのは、静かな湖面のような平安。
もちろん現実を生きているので、恐れがなくなっても様々なトラブルはある。
だけど、それが以前のようには、のしかかってこない。
大丈夫、大丈夫…とさらっと受け止め、対処できる。
必要以上に悩まず、未来を信じて、その日を生きる。
自分のことをしっかり見つめられるようになると、視野が広がり、相手のことも前より理解できるようなった。
理解できるのだから、ジャッジしたり責めたりもしなくなる。
すると現実での人間関係も、嘘のようにほぐれて柔らかくなった。
10年前のグチャグチャが、こんなにすっきり片づいて、まだ再生途上ではあるが、私は自分が自分であることを歓び、楽しみ、愛している。
もちろん、目覚めた時に、今日も生があることに、がっかりなんてしない。
だから私は言える、人は変わることができるのだ…と。
自分の体験だから、自信を持って言える。
これは超個人的な私の再生ストーリーですから、万人受けするとは思いませんが、私の体験をシェアしてほしい…と言ってくれる人がいました。
スタジオSeriのオーナー、柿本さわこさん。
幅広い学びの場を提供し、みんなで一緒に成長していきたい…という強い想いから、この度、朝活を立ち上げます。
第1回目の栄えある講師として、私がドロドロからの脱却について、お話しさせていただきます。
日曜日の朝、もしよろしければ、いらしてくださいね。(さらにグチャグチャな話をします)レンタルスタジオSeriのことも、知っていただけたら嬉しいです。
ブログがつなぐご縁に感謝します。
モーニングSeri
日時 : 4月21日 (日) 9:00~11:00 (講和&茶話会)
場所 : スタジオSeri 金沢市諸江町上丁452-1(8番らーめん諸江店2階)
駐車場 : いっぱいあります
参加費 : 500円(お茶とお菓子代)
お申込み : スタジオSeriまで