1.17に9.11に3.11。
災害やテロは、思わぬ時にやってきて、全てを奪っていく。
明日も、その明日も、またその明日も、今日と同じ平凡な1日が続くと私たちは信じているが、それが幻想にすぎないことを、残酷なまでに突きつける。
子どもも若い人も中高年も老人も、明日があるという確約は誰にもない。
それなのに、ある日、突然、明日がもぎ取られるなんてことは、【私】には起こりえない・・・と、なぜかみんなが思っている。
だけど、そうじゃないと、私たちは知った。
10年前のあの日に。
もし今日が最後の日だと知っていたら、もし「いってきます」と出かけた家族ともう会えないと知っていたら、もし「ごめんなさい」や「ありがとう」を伝える機会が二度とないと知っていたら、私たちはどうするのだろう。
感情の行き違いを、そのまま放っておくのだろうか。
本当は大好きなんだと、伝えずにおくのだろうか。
プライドや拗ねや意地なんて、この際、どうでもよくなるのではないだろうか。
岩手日報のコラムを紹介したい。
『大切な人と、今日、話そう。』
大切な人と、今日、話そう。
「ごめん」を伝えられずに会えなくなったら、一生後悔することになるから。
大切な人と、今日、話そう。
「いってらしゃい」を言わなかったことを、ずっと引きずってしまうから。
大切な人と、今日、話そう。
年月が経つと、声を出すことが難しくなってしまうから。
大切な人と、今日、話そう。
朝、出かける我が子と話すのが最後になると、わかる人はいないから。
些細なことでも、ひと言でも、電話でも、メールでもいい。
大切な人と、今日、話そう。
今日話さなくても明日はきっとくるだろう。
でも10年前の今日は、明日が来るのは当たり前ではないと知った日だから。
あの日起こった無数の後悔を、少しでもなくすために、3月11日を、大切な人と話す日に。
人は愛と感謝を選んで生きることもできるし、憎しみと自己憐憫を選ぶこともできる。
もし目の前の人に、二度と会えないとしたら、その人に最後になにを渡そうか。
優しい眼差し、愛に満ちた言葉、温かいハグ?
それとも批判、文句、叱責?
パートナー、親、子ども、友人、同志、仲間、同僚・・・、なにを最後の思い出にしたい?
選択権はこの手の中に。