ピカピカの1年生になる。
大きなランドセルを背負って、学校へ行って、勉強して、給食を食べて、お兄ちゃんやお姉ちゃんと同じになる!
「友だち100人できるかな~~」は、そんな憧れを表した歌だ。
だけど、あまりにも有名で、あまりにも当然に謳われる「友だち100人」は、私たちの心を縛り、制限をかける。
人は一人では生きられない。
ごく基本的な衣食住でさえ、一人では賄えない。
農業をする人がいて、漁業をする人がいて、流通を司る人がいて、製造する人がいて、梱包する人がいて、販売する人がいて、修理をする人がいて、…たくさんの人の手があって初めて、生活が成り立っている。
それぞれがそれぞれの場所で自分の分を果たし、社会という大きな輪を回す。
そう、みんなが少しずつ、どこかで関わっているのだ。
だから社会の平和は大切だし、ルールを守って、みんなが気持ちよく暮らす努力は欠かせない。
でも、でもね…、だからといって、社会の人みんなと同じテンションの友だちになれる?
人間関係には、濃さがある。
距離感と言ってもいい。
出逢って、知りあって、共感しあって、学びあって、支えあっていくような関係に育つこともあれば、1回限りの挨拶で終わる場合もある。
そしてこの両極端の間には、数えきれない濃さ(親密具合)が存在する。
だけど、それは悪いことではない。
出逢った人全てと、濃~~~い関係を紡ぐのは無理だから。
そんな時間やエネルギーは、誰も持っていないから。
だから濃度差はあっていい。
それなのに…、みんなと仲良くしなければ…と、なぜか私たちは思う。
そして、あの人とはあんなに親しげなのに、なんで私にはそっけないの?…なんてことも起こる。
でもそれが普通。
あって当然。
自然なこと。
だって努力では埋められない、相性の違いって、あるじゃない?
相性が悪い人というのは、必ずいるじゃない?
それは自分の影を相手に投影している場合もあるのだけれど、影を直視するのはしんどいから、どこかわだかまりが残って、距離が縮まらない。
でも、いいんだよ。
それも全部あり!
だって人間なんだから。神様じゃないんだから。
かつて娘が小学生だった頃、友だちグループは緊張感に満ちていた。
5人ほどのグループで、仲良しとそれ以外の編成が、コロコロ変わる。
昨日の友は今日の敵…みたいな。
みんな、自分がはじかれないように、一生懸命だった。
でもある日、その中の一人が、もう嫌だ!…と言って、グループを離れた。
こんな関係性なら、一人のほうがマシだと言って。
その子のお母さんも、無理に一緒にいろとは言えない…と。
そうしたら、別の子のお母さんが、「みんなで仲良くできたらいいのにね」と言った。
すごく真っ当で常識的な意見。
社会から求められる子ども像は、多分それ。
だけど、それができないから、子どもたちは幼い心を痛めている…。
友だち関係にも、いろんな深さがあるんだよ。
たった5人でもこんなに違う。でもその違いは悪いことではない。
違いはあって当然と、思っていればいい。
友達関係のテンションは、全部同じでなくてもいい。
あの時、子どもたちにこんな風に伝えてあげられれば、よかったな…。
私もまだ若くて未熟だった。
友だちは100人できなくてもいい。
合わない人と、無理して、頑張って、友だちのフリをする必要もない。
全ての人と、親友にはなれない。
人間関係には、いろんな濃さがあってもいい…と、自分に許可すると、けっこうラクになるよ。
友だち100人の呪いは、自分で解こう。
余談だが、例の歌は「100人で食べたいな~~、富士山の上でおにぎりを…」と続く。
友だち100人作ったら、自分を入れて101人。
でもおにぎりを食べるのは100人。
…ということは、一人だけハブられてる?(^^ゞ