第1章の考察を書いてから、なんと2年の時が流れてしまった。
今、学んでいる講座の課題図書に本書が指定されたこともあり、再びページを開く。
以前読んだ時に引いたマーカーや貼った付箋の多さに、内容を理解したいのにできなくて、焦り、迷い、悶えていた自分が垣間見える。
いったん離れていたのに、また戻ってきた。
ご縁のある本なのだと思う。
言葉の弊害
私たちは世界をありのままに見ることが苦手だ。
目の前の現象を、すぐ言葉で説明しようとする。
だが5つの母音といくつかの子音から構成される言葉というものが、どれほどの真実を語れるというのだろうか。
「私」という複雑で深遠なる存在のどれだけを、言葉で説明できるのだろうか。
いや、鳥や植物、石ころでさえ、その全てを言葉で表わすことはできない。
言葉を使った思考で理解しようとする限り、石ころのすべてを知ることすらできない。
ではどうすればいいのか?
本書は対象物を手に取って、ただありのままに見つめれば、驚異と畏敬の念が湧き起こると説く。
それは全ての物が拠っている「生命の源」と繋がること。
鳥も花も石ころも、当然人間たる私たちも、言葉でレッテルを貼らずに、ただありのままを見つめ、味わい、感じることで、生命の源に繋がっていることが分かるというのだ。
言葉のレッテルを貼ることで本質を見失うことは、レイチェル・カーソンも同じ事を述べていた。
最大の奇跡は自己の本質を経験できることだ。
本質は言葉などではとうてい表わすことはできない。
脱同一化
最近、あちこちで耳にする脱同一化だが、いったい何のことだろう。
「私・I」は、思考や環境や経験や知性のことではないとトールは言う。
「私」とは、命の源に連なる存在そのもので、思考や感情ですら、それに付随するものだと。
とんでもない単純化によって、無限の深さを持つ自己が、「私(I)」という音声と混同されている。そしてそれを自分のアイデンティティだと思い込む。
またほとんどの人は絶え間ない思考の流れに自己を同一化している。
思考や感情は「私(I)]ではなく、「私(I)」とは命の源に繋がる存在そのものであると認識することが、脱同一化である。
アイデンティティとしてのモノ
自分の存在の深淵を知らないうちは、モノによってアイデンティティを確立しようとする。
モノと自分を同一化し、所有することによって、自分の価値を確認したがる。
ブランド力や希少性を尊いとするのは、そういう心理が働くからだ。
自分を生き生きとした生命体と感じられなくなると、人はモノで人生を満たそうとする。
そういうケースを、私もこれまで沢山見てきた。
本書には死期を前にした女性のエピソードが紹介されている。
大切な指輪がなくなったのは、盗まれたからだと訴える女性に、トールはその指輪がなくなると、貴女は損なわれますかと問うた。
しばらくして彼女は、「私は在る」と答えた。
指輪があろうがなかろうが、彼女の存在自体はなんら損なわれることはないことに、気づいたのだ。
指輪に執着していたのは、エゴだった。
だがエゴは善でも悪でもない。ただの無意識だ。
自分の中のエゴを観察する時、エゴの克服が始まる。エゴは個人ではないということを忘れてはならない。
私も同じような経験をした。
毎日つけている、シルバーの指輪が見当たらなくなった。
一昨日は確かにあったのに、指輪置きの中にも、洗面所にも、ベッドの横にもない。
高価な指輪ではないが、ハワイアンな感じもして、とても気に入っていて、御守り代わりにいつも私の薬指を飾っていた。
・・・あるべきモノがないとなると、最初はとても心許ない感じがした。
指がスースーして、落ち着かない。
だがそれも2日、3日経つうちに慣れてきた。
大好きな指輪ではあるが、なかったからといって、私の身代が脅かされるわけではないし、私はなんの損なわれることもない。
それが分かった時、指輪は本の陰からひょっこり出てきた。
モノと自己の同一化とは、一見滑稽だが、意外と誰でもが陥りやすい。
死の床にあって初めて、人は所有の概念が、実は無意味だったことに気づくのかもしれない。
聖書の中でイエスが言った「心の貧しい者は幸いです」というのは、心に何も持ち物がない、何にも自分を同一化していないということだった。
心の貧しい者になった時、人は天の御国を感じることができる。
ただ全ての物欲を取り払ったとしても、エゴは次の対象物を求めて動き出す。
たとえば、自分は物欲のない他者よりも霊的に優れた人間だ・・・というような概念だ。
自分を同一化するのは、モノでも精神的な概念でもなんでもいい、それを通じて自分の正しさを証明できさえすれば。
モノに対する執着に気づいている、その気づきが【私・I】である。これが意識の変容の第一歩だ。
アイデンティティとしての身体
自分の肉体に同一化して、アイデンティティを得る場合もある。
まず性別。
男か女かで、役割意識が植え付けられ、生活のすべてに影響する行動パターンが生まれる。
また美貌や若さや肉体的パワーや精力にアイデンティティを求める傾向は否定できない。
だがどんな肉体も、やがては老いて衰え、死を迎える。
そこにアイデンティティを見いだせば、肉体の衰えとともに、自己価値も先細りしてしまう。
なので、肉体と自己の同一化は、愚かしいと言わざるを得ない。
細胞の集合体である肉体ではなく、内なる身体、つまり内側から感じる生命感に思考を移す必要がある。
肉体がどんな状態であろうと、内なる身体は生き生きとしたエネルギーの場なのだ。
トールが提案するワークをやってみた。
目をつぶり、自分の手を感じてみる。
手そのものではなく、手の中にあるエネルギーを意識する。
確かに手の平に温かいなにかを感じられる。
”氣”と呼ばれるものかもしれない。
次は、足、ふくらはぎ、腿、二の腕・・・と増やしていくと、やがて椅子から身体がフワッと浮き上がったような感覚に包まれる。
リアルな重さを伴う身体ではなく、生命力のエネルギーを感じるとは、こういうことなのだろうか。
私たちは常に、目に見える形というものに囚われすぎている。
アイデンティティとしての思考
かつてデカルトは「われ思う、ゆえにわれ在り」と述べた。
彼の言葉は、思考との同一化を意味する。
思考している自分がいる・・・と、外から気づく意識は思考の一部ではない。
すでに別の次元の意識だ。
デカルトの考察は鋭かったが、新しい次元の意識に気づいてはいない。
形が喪失すると・・・
肉体であれ、思考であれ、感情であれ、肩書きや人や資産など、自分と同一化した何かが突然、無くなることがある。
一見悲惨な状況だが、そんな中で、穏やかな平安を経験する人たちがいる。
喪失を機に、その対象との同一化が崩壊すると同時にエゴも崩壊し、私は在るという感覚が解放される。
そして意識そのものとしてのアイデンティティに気づく。これが神の平安と呼ばれるものである。
すぐに次の対象を求めて探し回らず、抵抗しないであるがままを受け入れると、新しい次元の扉が開くとトールは説く。
なにかに依存することなく、大いなる源と繋がる自己の意識に気づき、私は在る・・・という感覚を認める時、そこにエゴの居場所はない。
Chikakoの感想
う~~ん、相変わらず、分かりにくい。
翻訳書の宿命でもあるけれど、すっと言葉が入ってこない。
第二章で著者が強調したかったのは、エゴというものは単独では存続できず、常に依存先を求めているということだろうか。
モノでもいいし、肉体でもいいし、考え方でもいい、とにかくなにかと同一化して、アイデンティティを得ようとする。
〇〇を所有する私、学歴の高い私、〇〇が得意な私、仕事で成功している私、肩書きがある私、若くて美しい私、人よりもスピリチュアルな感覚が開かれている私、・・・でもそれは「私」ではないのだということを、肝に銘じておこう。
以上、第二章のレポート終わり。(第三章に行けるのか、私?)
