タイツの断捨離をしていた時、次の冬もまた必ず履くから保管しておこうとして、ふと思った、次の冬が必ず来るって本当かなと・・・。
人は明日は来るものだと信じている。
突然の不幸を見聞きしても、自分には起こらない・・・とどこかで信じている。
いや、信じたいだけかな・・・。
浅田次郎氏の『おもかげ』は、まさにそんな人の物語。
来るはずだった明日は、来ないかもしれない。
『おもかげ』のストーリー
竹脇正一、65歳。
エリート会社員として勤めあげた会社を定年退職した。
送別会の帰り道、40年以上、通勤で乗り続けた地下鉄の車内で意識を失う。
大きな花束を抱えたまま。
運び込まれた病院で、意識を取り戻すが、それは文字通り意識だけの覚醒。
何本ものチューブに繋がれた竹脇の身体は、昏睡状態のまま。
目を開けることもできないが、意識は起きているので、周囲の会話は聞こえる。
積極的な治療はしない・・・、つまり医師や看護師は、もう希望はないと判断している。
俺はこのまま死ぬのかな。
竹脇を取り巻く人々、妻や娘夫婦や親友や幼なじみが、枕元で吐露する竹脇への想い。
自分の人生を振り返る竹脇の元に、一人の女性が現れる。
年齢ははっきりしないが、かなり年上のマダム。
会った覚えはないが、彼女は竹脇をよく知っているようだ。
「あなた、お腹空かない?」
マダムは竹脇を新宿に連れ出し、高層ビルのレストランでフレンチのディナーを食べる・・・?
実際に彼女が連れ出したのは竹脇の意識だけで、竹脇の身体はずっとベッドに横たわったままなのだ。
ホタテと舌平目とアイスクリーム。
自分の好みを調べたとしか思えないメニューをマダムが注文し、三日三晩眠ったままだった竹脇もディナーを堪能し、再び病院のベッドへ戻ってくる。
マダムは一体誰なのか?
死神・・・でもなさそうだし。
次の晩は、50代くらいの開放的な女性と海水浴を楽しむことになる。
焼けた砂に足の裏を焦がしたり、一本のラムネを分け合って飲んだり、夢にしてはやたらとリアルだ。
すごく親しげだが、やっぱり竹脇は彼女に覚えがない。
その次の晩は、ICUの隣のベッドで同じく昏睡状態のカッチャンが、散歩に誘ってくる。
二人で銭湯に行き、屋台のおでんをつつく。
そこで語られるカッチャンの過去とミネコへの淡い恋心。
その夜、カッチャンは旅立ってしまい、竹脇は地下鉄で(あの世へ)去っていく彼を見送る。
さらに次の晩は、30代くらいの女性と地下鉄に乗っている。
女性はミネコと名乗った。
・・・いったいこれは何なのか。
延々と続く不思議な人たちとの出逢い。
種明かしは最後の60ページに凝縮されている。
意味が分かった時、こんな愛もあるのか・・・と不思議な感覚に襲われる。
Chikakoの感想
竹脇はいわゆる捨て子で、親の顔を知らない。
戦後間もなくのことで、日本の福祉はまだ黎明期、施しや慈善の延長だった。
なにか施しを受ければ「ありがとう」。
竹脇にとっての「ありがとう」は、もはや義務だった。
それが不思議な人たちとの出逢いをとおして、心からの「ありがとう」にたどりつく。
愛の形は様々だ。
端から見たら、眉をひそめるようなことでも、愛から発した行動かもしれないのだ。
そんなことは当時者にしか分からない。
でも当事者がそれでいいのであれば、それでいいではないか。
その正しさも動機も、説明する必要などないのかもしれない。
ごく最近、私にとっても「ありがとう」の意味合いが変わった。
感謝は感謝なのだが、その発する場所が少し変わったというか。
その「ありがとう」は、誰かが私に向けてくれた優しさを、ちゃんと受け取って初めて言える「ありがとう」だった。
照れたり、疑ったりせずに、想いをきちんと受け止める。
そんな愛情に私は値しないと否定せず、何も足さず、何も引かず、そのまま丸ごともらう。
・・・私に欠けていたのは、そこかもしれない。
『おもかげ』は死線をさまよう人が主人公なのに、ある種、ファンタジーのようで、そこはかとない明るさが漂う。
後に残るのは、重苦しさや救いのなさではない。
誰もはっきりとは知らない、三途の川の周辺の物語。
ありそうで、なさそうで、やっぱりある?
私は浅田次郎氏が投げた想いを、ちゃんと受け止められたかな。
小説を読む愉しみってこういうことだよな~~と、改めて思わせてくれた素敵な本だった。