私は人の不機嫌に対してすごく敏感だ。
なにか怒りを抱えていたり、言いたいことを我慢していたり、体調が悪かったり、…直接私に関係がない場合でも、相手の不機嫌のオーラを素早くキャッチしてしまう。
そして、相手に引きずられ、自分の気持ちもダウンする。
あの人が怒っているのは私の問題じゃない…と、課題の分離をするようにしているが、それは思考ベースのことであって、動物的感覚でいやなオーラを嗅ぎ分けてしまうのだ。
なんとも損な特技。
だが修行の甲斐あって、最近は人の不機嫌に出会っても、最初はおおっ!…とびびるが、平常心でいられることが多くなった。
あからさまに顔に出さなければ、誰にも悟られないと思っている人が多いようだが、不機嫌は伝わる。
隠しても、なんとなく分かっちゃう。
そしてなんで分かるかっていうと、かつて私自身が、超絶不機嫌な女だったからだ。
表には出していないつもりだったけれど、嫌な氣をまき散らして、周囲に気を遣わせていただろう。
パソコンを新調するために、データ整理をしていた。
古い画像の中に、娘が小1か小2の頃、一緒に撮った写真があった。
ピアノの発表会だったと思う。
乳歯が抜けたあどけない顔で笑う娘の横で、硬い表情の私。
我が子の晴れの場だというのに。
微笑んでいるのに、なんだか怖い…。
内側の不機嫌さが、そのまま表れている。
それなのに自分が不機嫌だということにすら、おそらく気づいていない。
ただ日々、イライラして、不満だらけで、理由の分からない怒りに苛まれていた…。
そしてその感情を、情け容赦なく家族にぶつけていたはず。
家族のために、死ぬほど働いていた夫と、まだ幼い子どもたちに。
私が子どもだったら、嫌だな、こんなお母さん。…怖くて、近寄りがたいよ。
私も、子どもの頃、母が怖かった。
感情の起伏が激しく、いつ爆発するか分からない母の顔色を、いつもビクビク伺っていた。
あんなに嫌だったのに…。
自分も同じことをしていたなんて。
ごめんね。今更だけど、本当にごめん。
私は自分が嫌いだった。
もっと違う自分として生まれてきたかった。
愛される存在になりたかった。
たくさんの人と喜びや感動や愛を分かち合いたかった。
…でもそれができない。
Buddha Programの齋藤つうり氏は、タンポポの種はタンポポに、ヒマワリの種はヒマワリにしかなれないと言う。
だけどタンポポはヒマワリを羨まないし、ヒマワリはタンポポになりたいと思わない。
そこに比較は存在しない。
なぜならタンポポもヒマワリも、自分を知っているから。
だから誰とも比べない。
人は自分自身を知らないがゆえに、内ではなく外に目を向け、誰かと自分を比較して苦しむ。
私は私以外にはなれない。
私は生まれた時から、いや、生まれる前から、私になることが決まっている。
・・・なのに、よそ見をして、あっちがいい、こんな自分は価値がないと悲嘆にくれる。
私の中には、光もあれば影もある。
それが丸ごとの私で、努力しても、皮を被っても、鍛錬しても、本質を変えることはできないのだ。
私はタンポポだから、タンポポの花を咲かせる。
そのシンプルな真理にたどり着くのに、どれだけの時を費やしてきただろうか。
昔の私は、タンポポがタンポポであることを否定していたから、理由の分からない怒りをあんなに溜め込んでいたのだろうね。
光の部分も影の部分も、全部まるっと私。
私は私になるべく生まれてきた。
そう思うと、枝葉のことはどうでもよくなり、自分や世界に向けていた怒りも溶けていく。
そうやって、ただ淡々と私は生きている。
空の青さや植物の瑞々しさや鳥のさえずりの愛らしさを悦びながら。