前章では、エゴは思考・役割・物語など様々なものに同一化するが、自分がなにか反応した時、それがエゴの同一化だと気がついていることが大切だと学んだ。
この気づいている意識こそが「私」なのだと。
さて第四章は・・・?
エゴは役割と同一化する
エゴは他者に求める。
エネルギーの源は自分の中にあることを知らないから、外から得ようとする。
エゴが欲しがる心理的エネルギーは、他者からの賞賛や承認や賛美などだ。
人は他者に関心を持ってもらいたい。
「私はここに存在している。それを認めてくれ」と叫んでいる。
社会での役割や職業に同一化するのも、エゴの得意なパターンだ。
親や指導者や大人という役割を演じ、医師や主婦やエンジニアという職業をアイデンティティとする。
役割を演じるということの分かりやすい例が、相手によって微妙に変化する自分の言動だ。
大企業の社長と対する時とその運転手に対する時、大人と話す時と幼児と話す時、何も変わらないという人がいるだろうか。
無意識のうちに役割を演じているから、言葉使いや態度が変わる。
また店員と客も、それぞれの役割を演じているだけであって、その人個人として向き合っているわけではない。
私たちは、私が考える私という人物が、私が考える相手という人物とつきあっているに過ぎない。そしてそれは相手も同じ。
エゴとエゴが付き合っているのだから、それは虚構だ。
親という役割を演じる
多くの人は親になると、その役割に自分を同一化してしまう。そしてそのことに無自覚だ。
親であることが、アイデンティティになると、目の前の子どもと、対等な関係を結べない。
親なのだから、自分の方が上、自分が優位だと思い込んでしまう。
魂のレベルで見れば、親と子はひとりの人間として対等な関係だが、外側の親子という形だけを重視すると、上下関係が生まれる。
そして親は無意識のうちに自分の期待を追わせ、子の意志をねじ伏せてコントロールする。
自分の欠落やニーズを、子で埋めようとする。
エゴの本音はこうだ。

あなたには私が実現できなかったことを実現してもらいたい。
世間の注目を浴びる立派な人になってもらいたい。
そうすれば私もあなたを通じて、ひとかどの人物になれる。
私を失望させないでほしい。
私はあなたのために、たくさんの犠牲を払った。
あなたの行動を否定するのは、あなたを罪悪感で落ち着かない気持ちにさせ、私の望む通りに動かしたいから。
もちろん何があなたのためになるかは、私が一番よく知っている。
私はあなたを愛しているし、あなたが私の言うとおりにすべきことをするなら、これからも愛してあげる。
ぞっとする。私も含め、多くの親が、こんなことをしていたなんて。
子どものため・・・と言いながら、実はなにもかも自分のエゴを強化するためだったなんて。
私はかつて、なぜ自分の愛情がうまく伝わらないのか悩んでいた。
こんなに愛しているのに、なぜ子は私に背を向けるのか。
我が子に自分は愛されていると感じてほしかった。
だけどそれは、子が自分は愛されていると感じることを通して、私が愛されていると感じたかっただけだった・・・と、今なら分かる。
ほんとにぞっとする。
愛なんて、伝わるわけがないじゃないか。
子が求めているのは、行動だけではなく、親が「今に在る」ことだとトールは言う。
今に在るとは、子どもを見つめ、話を聴いてやり、触れあい、あれこれを手伝ってやるときには、その瞬間以外はなにも望まず、決して上の空にならず、穏やかに、静かに、完全に今のこのときだけを意識していることだ。
そうしている時、人は父親でも母親でもなく、静かな気づきとなって存在し、その存在が耳を傾け、触れ、見つめ、話すのだ。
子が親に求めているのは、そういう関わり方。
私は全然、今に在っていなかった。時間が巻き戻せるなら、あの頃に返って、いちからやり直したい。
風に時代に求められる人物とは
どんな状況下でも、役割に自分を同一化することなく、やらなければいけないことをただやる人たち。
心が創り出すイメージを投影せず、その存在の深い核心から機能を果たし、自分を実際以上に大きく見せようとせず、ただ自分らしく在る人たち。
この混乱と争いに満ちた世界を変えていけるのは、そういう人たちだ。
彼らは新しい意識の担い手で、その行動はすべて、個人の欲ではなく、全体の目的に合致している。
彼らの影響力は、もうただ存在するだけで周囲に及び、出会う人々を変容させていく。
自分自身を定義することをやめよう。
自分がなにものなのか、分からなくてもいい。
分からなくてもかまわないと思えた時、そこに残っているのが貴方なのだから。
形の上では(現実の状況や肉体や能力では)、人は誰かより優れていて、誰かより劣っている。
だがその本質は、誰かより優れてもいないし、劣ってもいない。
それが腹落ちした時、真の自尊心と慎み深さが訪れる。
無意識な生き方の本質
あるがままの人生、あるがままのこの瞬間にエゴは対抗する。
そして創り出されたネガティブな状態を糧にエゴは肥え太り、エゴの大好きな不幸が生まれる。
そうやって自分で創り出した不幸で、自分や他人を苦しめる。
エゴの思惑通りのこの生き方が、無意識な生き方の本質である。
これは仕組みは、個人レベルでも、国家レベルでも変わらない。
世界に蔓延する憎しみと暴力を終わらせるには、自分の内面の状態に自分で責任を持つことから始まる。
他人のせいではないのだ。すべて自分が創り出したことなのだ。
何度も繰り返して言われるのは、まず気づくこと。
気づけば、思考や感情や自動反応から自分自身を切り離せる。
あなたは「今に在る」という光になり、思考や感情よりも先行する深い気づきとなる。
自己の仕事に全身全霊で打ち込んでいる人たちは、その瞬間「今に在る」。
彼らは、認めて欲しいとか、誇りたいとか、大きく見られたいとか考えておらず、全神経が仕事に向いている。こういう人たちの影響は、仕事を越えてはるか遠くまで及ぶ。
一方、関心の一部は仕事に向けているが、他の部分は自分自身に向けている人もいる。彼らは承認を求め、望んだ承認が得られないと恨みがましくなる。
仕事が目的(承認を得る、賞賛される、優越感を得る等)のための手段になると、仕事の質が落ちる。
こういう人たちは、誰かが成功すると、その成功は自分から奪われたものだと感じる。
集団のエゴ
個人であっても集団であっても、エゴの仕組みは同じだが、集団の中にあることで、人は一時的に自分が強く大きくなったように感じることができる。
時には報酬も名誉も栄達も求めず、献身的に集団のために尽くすことで、個人的なエゴをなくしたようにも見える。
だが往々にして、エゴが個人から集団にシフトしただけの場合もある。
エゴは集団になると、さらなる敵対勢力が必要となる。
自分たちの正義だけが正義で、敵は間違っていることを証明したがる。
世界に紛争がなくならない理由はここにある。
だがある程度目覚めた人たち、エゴが発動したらそれに気づける人たちが集団を作れば、彼らは新しい意識を生み出すために大きな役割を果たすだろう。
啓かれた集団は、地球の意識を加速させる意識の旋風となる可能性を秘めている。
Chikakoの感想
親という役割もエゴの一形態になりうること、子どものためと言いながら、実はエゴが何をしていたのかを知った時の衝撃といったら!
私は本当に無知だった。
真理に対して、心理に対して、自分に対して、何も知らなかった。
無知で未熟なまま親をやってしまい、子どもたちの心にどれだけの傷を与えてきたのだろう・・・と考えるといたたまれない。
自分自身が親との関係で苦しみ、自分はそんなことはすまい・・・と心に誓っていたにも関わらず、結局は同じことをしてしまった。
私の親も未熟で無知だった。
でも戦後の高度成長期を死に物狂いで駆け抜けてきた彼らには、エゴのなんたるかを知る機会も余裕もなかった。
私に深い傷跡を残した言動は、エゴの仕業。
親個人とは切り離して考えるべきだと、今なら分かる。
親を反面教師にするのであれば、私はエゴについて深く知り、自分の中のエゴと対峙し、エゴをエゴとして気づける自分になればよいと思う。
怒ったり、恨んだり、拗ねたりするステージは、もう終わりだ。
第四章のメインテーマは、思考ではなく、気づきとして生きること。
