冒頭から「世界はシンプル」だと断定する本書。
でも私たちが暮らすこの社会は、とっても複雑だ。
子どもの頃ならいざ知らず、成長すれば、私たちには義務と役割が生じる。
労働の義務、納税の義務、養育の義務、介護の義務、社会参加の義務。
夫・妻としての役割、父・母としての役割、地域住民としての役割、社会人としての役割、国民としての役割。
たくさんの義務と役割に縛られて、社会に適合しながら生きることが、果たしてシンプルと言えるのか?
アドラーの生きた時代は、現代よりはシンプルだったかもしれないが、義務と役割の点では、大差ないだろう。
それでもアドラーは「世界はシンプルだ」と主張する。
世界はシンプルだけれど、そのシンプルな世界を、私たちがわざわざ複雑にしているのだ…と。
岸見一郎氏は世界という言葉を使っているが、人生に置き換えるともっと分かりやすいかもしれない。
人生はシンプルだ。
ではなぜ私たちがシンプルだと感じられないのかというと、そこに主観が入ってくるから。
私たちは客観的に在りたいと思いながらも、主観で物事を捉えることを止められない。
井戸の水は年間を通して、温度が一定である。
井戸水は18度、これが客観的事実。
これに対して、夏の暑い盛りに井戸水を飲むと、冷たいと感じ、冬の凍える日に同じ水が温かいと感じるのが、主観的な捉え方。
水の温度は変わっていないのに、季節によって感じ方が変わる。
それと同じで、ある事実があっても、人は自分の感じ方を通して、その物事を解釈する。
だからある人にとっては、耐えがたい屈辱になり、別の人にとっては取るに足らないことになる。
同じ物事について語っていながら、AさんとBさんでは、全く捉え方が違うのだ。
Aさんが虎について語っているのに、Bさんは兎を思い浮かべているようなもの。
ここに誤解や祖語が生まれる。
そして人間は、みんな自分の主観から逃れることはできないので、事実ではない誤解の上に、さらなる行き違いを積み重ね、ことをややこしくする。
だから、軽い気持ちで言った言葉が、相手を深く傷つけ、関係が破綻する…なんてこも起こりうるのだ。
原因はお互いが、事実ではなく、主観に則って、勝手な解釈をしていること。
つまり人生を複雑にしているのは、私たち自身なのだ…と、アドラーは説く。
だが!
今は複雑怪奇に絡まりあった複雑な人生も、自分が変わることによって、元のシンプルな姿を取り戻すことができる。
大切なのは、世界や人生がどうであるか…ではなくて、自分自身がどうであるか。
あの人がこうした、あの人がこう言った…と、相手の非を探して、だから私は悪くないと開き直っているうちは、その泥沼から出られない。
あの人がこうした、あの人がこう言った…ということは、どうでもいい。
相手のことはひとまず横に置いておいて、じゃあ、あの人がこうしたり、こう言ったりした時、私はどう感じたのか。
そこに、そこだけにフォーカスしていく。
つまり課題の分離に繋がるのだが、ベクトルを相手から自分に向けた時、やっと私たちは変化の第一歩を踏み出すことができるのだ。
私たちは、みんな主観という名のサングラスをかけている。
ピンクのサングラスもあれば、グリーンやイエローのサングラスもある。
みんなが主観を通して物事を見ていて、その主観は人によって全部違うのだ。
現実には、それぞれピンクやグリーンやイエローの色がついていて、見え方が少しずつ全部違っていることを、まず知っておこう。