影、影、影。
シャドー、シャドー、シャドー。
概念としてずっと追ってきた。
影とは、私が生きてこなかった可能性の全部。
私が選ばなかった可能性の全部。
私の外側の全部。
・・・つまり、他人はみんな影。
「影」という言葉には、ネガティブなイメージがあるが、別に悪いものじゃない。
自分と違うということ。ただそれだけ。
自分とは違う視点がある。
自分とは違う考え方がある。
自分とは違う感じ方がある。
その違いを見せてくれるのが、影たち。
そこに善悪はない。
自分と似たものであれば、自分で認識できるが、違うのであれば自分ではよく分からない。
だから影が、わざわざ神経に障る言動で教えてくれる。
だけどどうして影の言動に、こうまでイラつくのだろう?
それはね、実は自分の中にも同じ物があるから・・・。
そしてそれを認めたくない。
そんなものをわざわざ見せてくれる影・・・、確かに不愉快極まりないね。
重ねて言うが、相手が悪いわけではない。
同じ言動に、イラッとする人もいれば、無反応の人もいる。
影に反応するのは、巧妙に隠している自分の本心が暴かれるような気がして、神経が逆なでされるからだ。
心の奥の大事ななにかに、チクッと刺さるからだ。
自分の側になにもなければ、影に反応しないはず。
反応の裏には、必ずなんらかの原因がある。
たいていは押しつぶした自分の気持ちだけれど。
だからイラっときた時は、チャンス。
影が見せてくれているのは、自力では見ることができない自分自身だ。
なぜその言動にイラッとくるのかを丹念に掘り下げていくと、自分でも知らなかった本当の欲望が見えてくる。
大人の振る舞いにふさわしくないと、押し込めてしまった感情。
本当はやってみたかったのに、きっと無理と背を向けてしまった後悔。
いい人だと思われたくて、嫌われたくなくて、無視してしまった自分の心。
寂しかった、悲しかった、悔しかった、羨ましかった、こっちを見て欲しかった、チャレンジしてみたかった、失敗してもいいよと言ってもらいたかった、人気者になりたかった、諦めたくなかった、丸ごと受け止めてほしかった、堂々と好きだと言いたかった、愛されたかった・・・そんな諸々を、影たる相手が目の前で展開してくれる。
イラッとするのは、そういう気持ちを認めることを、自分が自分に禁じているから。
人は自分が禁じていることを、イケシャアシャアとやってのける相手に、怒りを感じる。
影に怒りを感じるのは、自分が我慢していることを、影は我慢していないから。
自分が自分に禁止していることを、影はいともなげにサラッとやっちゃってるから。
屈折した感情が反映される。
私は我慢してるんだから、貴方も我慢しなさいよ・・・と。
気づいてよ!
内から湧き上がる、その小さな叫びに耳を傾けて。
自分のことがを、もっと分かりたい?
ならば影をよく見よう。
見たくなくても、目を背けないで。
自分が投影していることを、影がつまびらかにしてくれるよ。