もし言葉というコミュニケーションツールを失ったら、人間はどうするんだろう・・・。
意識ははっきりしていて、伝えたいこともあるのに、声も出せず、字も書けなかったら?
リンゴが食べたいや、横になりたくない、そんなシンプルな願いさえ伝える術がなくなったとしたら?
【沈黙のひと】のあらすじ
父親が施設で亡くなった。
娘の衿子は父の荷物を引き取りに、施設へ向かう。
あまり悲しくはない。
なぜなら、両親が離婚したため、衿子が父と暮らした時間は短く、あまり関わりもなかったから。
父には新しい家族があり、娘も二人いるため、意識して距離を置いていた。
だが父がパーキンソン病を発症した頃から、事情が変わり始める。
介護が必要な身となり、厄介者のように扱われる父。
捨てられた・・・という複雑な想いはあるものの、衿子は足繁く施設に通う。
父は筆まめな人だった。
かろうじてまだ指が動いた頃、ワープロで打った手紙を衿子に送ってきた。
だが病状が進むにつれ、ワープロはおろか、発声もままならなくなり、父は周囲と意思疎通を図れなくなる。
あいうえお表を、1文字1文字指さしながらのコミュニケーションは、ひじょうに時間がかかり、また指が震えるため、何度も間違える。
とてもまどろっこしい。
やがて父はコミュニケーションを諦め、沈黙の中に沈む。
遺品として引き取ったワープロメモリには、父が書いた日記と手紙が残っていた。
そこから衿子は、知らなかった生前の父の姿や想いを読み解いていく。
父が手紙で交流していたのは、短歌を通して親しくなった日出子。
そして最後まで会いたがったていたのは、会社員時代の赴任先で懇意になったちえ子。
関係ないと口では言いながら、衿子は父の素顔を追い求める自分を止められない。
勝手気ままな男に翻弄される人々
衿子の父・三国泰三は、言うなれば勝手な男である。
幼い衿子と母親を捨て、華代と再婚。
二人の娘をもうけるが、一番愛していたのは衿子だった。
華代の娘たちにしても、面白くない展開だ。
しかも華代は、略奪婚までしたというのに、泰三を憎んでいる。
いや、それは愛情の裏返しか。
自分と同じだけの愛を、泰三が返してくれなかったことへの恨みなのか。
しかも泰三には、家庭の外に想い人までいた。
病気が進行し、本当に動けなくなる直前、おぼつかない足取りで新幹線に乗り、秘密裏に彼女に会いに行っているのだ。
最初の妻である衿子の母は認知症を患い、全てを忘れてしまってもなお、泰三が贈ったアメジストの指輪を大事にしている。
誰も泰三の全体像が見えていない。
だから期待を抱き、夢を見る。
そんな勝手極まりない父の行状が明らかになっても、衿子は一人の人間としての父を理解したくてたまらない。
自分を捨てた男。・・・だけど切り捨てられない父という血の繋がり。
複雑で割り切れない心模様を、小池真理子が丹念に描く。
Chikakoの感想
思考と感情は何も変わらないのに、身体だけが思い通りにならなくなり、外界に意志を伝えることができなくなったら、それはどんな世界なのだろうか。
周りの人の言葉は聞こえるし、理解できる。
おまけに空気も読める。
自分が迷惑をかけていること、相手も迷惑だと思っていること、全部、分かっているのだ。
なのに、ありがとうやごめんねはおろか、大好きだよ、大切に思っているよ…愛情すら伝えることはできない。
考えているだけ、思っているだけ、感じているだけ。
それを誰とも共有することはできない。
しかも周囲は、病人が物言わぬことで、思考は明晰である事実を忘れる。
本人に聞こえているにもかかわらず、傷つくようなことを平気で言う。
枯れ木のようになったとしても、心はあるのだ。
コミュニケーションが断たれることで、人は相手の尊厳を踏みにじることに、無頓着になっていく。
私は基本的に一人で行動することが平気なタイプだが、それでも外界から完全に隔絶されているわけではない。
一緒に食事をしたり、会話をしたり、働いたりするし、書くという手段で多くの人と繋がっている。
一人の時間を大切にすることと孤立することは、似て非なるもの。
全ての思考と感情が出口を見つけることができず、自分の中だけでぐるぐる回っていたとしたら、そしてそれが死ぬまで続くとしたら…、それは絶望以外のなにものでもないと思う。
私はきっと諦めてしまうだろう、コミュニケーションをとることも、人と繋がることも。
そして自分だけの世界に深く深く閉じこもってしまうだろう。
死が訪れる瞬間だけを切望するようになるかもしれない。
そんな世界に生きていた三國泰三。
いっそ正気を失ってしまえば、楽なのに・・・。
そんな絶望感の中で生きていた父親の心情を、後から追っていく娘。
勝手な父だった・・・、だけど断ち切れない想い。
親子という関係の割り切れなさに、胸が痛くなる。
大きな事件は起こらないが、人の心の複雑さを垣間見る物語だった。