実家で採れたゆずと自家製の味噌を使って、柚子味噌を作った。
柚子味噌なんて買うものだと思っていた。
これまで生きてきて、作ってみよう…なんて気には一度もならなかった。
なぜそんなことをしたくなったかというと、【土を喰らう十二ヵ月】を観たから。
【土を喰らう十二ヵ月】のストーリー
ツトム(沢田研二)は、長野の山奥にこもって一人暮らしをする小説家。
9歳の頃、禅寺に奉公に出されたため、精進料理に親しみ、野山で調達した食材を調理したり保存食にしたりする知識を持っている。
担当編集者・真知子(松たか子)の勧めで、山での自給自足の生活を書くことになり、改めて日々の暮らしに目を向ける。
雪深い立春から始まり、啓蟄、清明、立夏と、二十四節気を追いながら、ツトムの暮らしを描く、まるでドキュメンタリーのような映画だ。
東京から真知子が来る日、ツトムは庭の雪囲いの中から取り出してきた子芋を、樽の中で板とこすり合わせて洗う。
昔の道具のようだが、ちょうどいい塩梅で子芋の皮が剥ける。
それを囲炉裏であぶって、熱々のまま食す。
あっちっちと言いながら、子芋を頬張る真知子を優しく見守るツトム。
春になれば取れたての筍やセリ、新緑の頃はタラの芽や蕨、夏は畑で作ったナスやきゅうり、秋はナメコや栗。
食べることは生きること…を、延々と見せてくれる。
日本の暮らしの原点
もちろんストーリーはあって、ツトムと真知子の微妙な関係や、ツトムの義母の死や、幼少期の想い出などが淡々と描かれる。
なんだかんだと責任を逃れまくる義弟夫婦に押しつけられる形で、義母の葬儀はツトムの自宅で執り行われる。
昔ながらの通夜振る舞いを、真知子に手伝ってもらいながら、ツトムが準備する。
自家製のゴマを洗って、打って、皮を剥き、練って、蒸して、ゴマ豆腐を作った。
参列者たちは、こんな雅な物、初めて食べる!…と大絶賛。
輪になって、念仏を唱えながら、長い数珠を回したり、参列者がお供え物を持参したり…と、私も知らなかった昔ながらの風習が興味深い。
ツトムの義母は生前、近所の人たちに味噌造りを教えた。
その人たちが、銘々で作った味噌を持参して、祭壇に備える。
ずらっと並んだビニール袋。洗練とか粋とは程遠いが、素朴な懐かしさのようなものを感じる。
Chikakoの感想
派手な設定も展開もなにもない。
沢田研二はすっかりおじいちゃんで、ほとばしるようなエネルギーと輝きはなりを潜めている。
背中を丸くして、寒々しい台所でホウレンソウの根を洗っているシーンなんて、カサブランカ・ダンディやTokioの面影は皆無だ。
けれどもそのうら寂しい後ろ姿に、どうしてこんなに存在感があるのか。
真知子の機嫌を伺うような弱々しい笑顔に、どうしてこんなに深みと優しさを感じてしまうのか。
往年の大スター・ジュリーも、いろいろな経験を積んで70代になった。
いいことばかりではなかったと思うが、その全てが今の在り方に繋がっているのだろう。
角が取れて、丸くなった。だけど人間味が増した。
カミソリのような切れ味はなくなった。だけどほんのり伝わってくる暖かさが、どうにもこうにも心地いい。
これを人は円熟と呼ぶのか。
もはや風前の灯火のような風習がいくつも出てくる。
このままなら、私たちが忘れ、私たちの子孫に伝わることなく埋もれていってしまう、ほんの少し前の暮らし。
この映画で、ほんの一部でも後世に伝えることができるかもしれない。
未来の学校で、歴史の授業中に視聴される日がきたりして…。
喰らうは生きる。
食べるは愛する。
いっしょのご飯がいちばんうまい。
エンディングは、ジュリーが歌う「いつか君は」。
懐かしい歌声は変わっていない。