今まで生きてきて、私は一体何人の人に出会っただろうか。
何千人?もしかしたら何万人の単位かもしれない。
出会いには様々な種類がある。
挨拶をして終りの関係から、その後も親しく付き合う関係まで。
出会いは人間関係の入口だ。
入口をくぐった後、その関係をどう紡いでいくのかは、個々に任せられている。
Buddha Programでひとつの問いかけがなされた。
「目の前の人に、ちゃんと出会っているか?」
これは”会う”を越えた”会う”のこと。
私たちは人と出会った時、相手の肩書や立場や役割や背景とも同時に出会う。
そしてその人にくっついている諸々は、ともすれば本人より目立つ。
目立つものに心惹かれるのは、人の常。
かくして私たちは、肩書や立場や役割や背景をその人だと思い込んでしまう。
肩書どおりに振る舞う相手、立場を全うする相手、役割を演じる相手、背景を背負う相手。
それで満足してしまって、本当のその人を見ない。
たとえば、親という役割を演じる母を、一人の女性として見たことがあるだろうか。
母はどこまでいっても母であって、”人”として付き合うことは、きわめて難しい。
そこには、母というものはこうあるべきという期待が、もれなく乗っかっているから。
たとえば、仕事で出会った人は、名刺に印刷された肩書とセットであって、肩書を外して付き合うことは、めったにない。
その後仲良くなったとしても、仕事関係という制約がつきまとう。
たとえば同僚は、仕事という同じ目的の下に出会った相手であり、プライベートをシェアする仲にはなりにくい。
友人にしても、趣味が同じで出会った人、子どもを介して出会った人、目標が似ていて出会った人、紹介されて出会った人、SNSで出会った人…と様々で、やっぱりそこに役割や立場や背景が入り込む。
つまりいくら親しそうにしていても、結局相手の本質と出会っていない場合が多い。
魂のレベルで、相手が何を感じていて、何を大切にしていて、何をしたいと思っているのか。
それは付随する諸々を取っ払って、ついでに期待もかなぐり捨てた状態でなければ、なかなか見えてこない。
そんな風に、ちゃんとその人の本質と出会っている相手が、私にはいったい何人いるのだろうか…。
明治の哲学者・森信三先生の言葉。
『人間は一生のうち逢うべき人に必ず会える。
しかも一瞬早すぎず、一瞬遅すぎないときに。
しかし、うちに求める心なくば、眼前にその人ありといえども、縁は生ぜず。』
うちに求める心なくば…、つまり表面的な付き合いでOKとする限り、本質は見えないということか。
だけど、もっと大事なことがあると私は思う。
それは自分が自分の本質と出会うこと。
だって誰よりも、まず自分でしょ?
私は何を求めていて、何に歓びを感じ、何に向かって情熱がわき、何に対して愛があふれ出し、何に触れて魂が震えるのだろうか。
そういう本質に関わることを理解していなければ、他人の本質をどうこう言う余裕なんてない。
ただし、自分一人で、自分を理解することが難しいのも事実。
自分のことは、とてもとても見えにくいから。
そんな自分の姿を映し出してくれるのが、自分以外の他人だ。
相手が鏡になってくれて初めて、私たちはその像を正視できるのかもしれない。
まず自分だけど、相手があってこその自分…というのが、なんともまどろっこしくて紛らわしい。