遥かなる水の音・村山由佳著 モロッコの情景がありありと思い浮かぶロード・ノベル

腹の底にドン!…とくる小説を読んだ。

重苦しいというわけではないが、軽くもない。

緻密な取材と構成に裏打ちされた、秀作だと思う。

遥かなる水の音のストーリー

「僕が死んだら、その灰をサハラにまいてほしい。」

そう言い残して死んだ青年の意志を受け、4人の男女がパリからサハラ砂漠を目指す、ロード・ノベル。

ジャン=クロード・パルスヴァルは、ゲイの中年フランス人。

莫大な遺産を相続したため、働かなくても贅沢な暮らしができる。

ひじょうに皮肉屋で、いつもトゲのある言葉を使い、周りをイライラさせる。

久遠緋沙子は、青年の姉。

パリの旅行会社で働いている。

同棲するアランに、「君のことを心から愛しているが、僕は生涯結婚はしない」と言われ、甘い生活を送りながらも、本当に愛されているのか確信が持てない。

奥村浩介と早川結衣は、亡くなった青年の同級生。

鎌倉で雑貨店を共同経営している。

なんとなく体の関係を持ってしまったが、酔った勢いだったのか…と結衣は今ひとつ素直になれない。

女心の機微にいかにも疎そうな浩介は、そんな結衣とどう付き合っていけばいいのか、分からない。

そんな4人を結びつけるのは、久遠周(あまね)。

カミングアウトしてはいないが、同性愛者だった。

ずっと浩介に苦しい片思いをしていたが、その気持ちをひた隠しにしていたので、浩介は最後の最後まで、何も気づかない。(鈍感!)

結衣もジャン=クロードも緋沙子も、周の想い人が誰なのか、薄々感じている。

モロッコ

4人は周の遺言を果たすため、遺骨をマリーフルールのエロス(紅茶の銘柄)の缶に入れて、パリから陸路でサハラに向かう。

飛行機を使えば楽なのに、わざわざ鉄道と船と車を使ったのは、以前周がたどった道筋を正確にたどりたいとジャン=クロードが提案したから。

スペインからモロッコに船で渡った直後から、ガイドのサイード・アリが同行する。

イスラム教信者のサイードにとって、同性愛は忌むべきことで、4人の旅は自己満足のバカバカしい行為に思える。

だが途中、緋沙子がサイードに倣ってラマダンの断食をしたり、我慢に我慢を重ねた末に爆発して、ジャン=クロードと激しい言い争いをしたりするうちに、互いに理解と許容が生まれ、最後には周の散骨に参加する。

モロッコ

周には、生前から不思議な能力があった。

死者の声が聞こえるのだ。

緋沙子によると、弟はあの世とこの世のはざまに生まれてしまった子。

周がサハラに散骨してほしい…と願ったのは、どこにいってもこの世ならざる者たちの声に引き留められ、心が休まらなかったが、砂しかないサハラであれば、死者の声も届かず、静かに眠れると思ったからだった。

秀逸なロード・ノベル

パリから鉄道でスペインへ、船でモロッコに渡り、サハラまでは車の旅。

サハラまでは何日もかかるので、行く先々の街で食事をしたり宿泊をしたりする。

その街の様子が、本当に詳しく描写されている。

供される食べ物や、市場や土産物店、ホテルや民泊の様子など、モロッコの暮らしが音や匂いまで立ち上ってくる。

モロッコ

モロッコから切り離すことのできないイスラムの文化。

早朝から流れるアザーン、タイルの唐草模様、ドロドロなミントティー、迷路のように入り組んだ狭い路地、そこを行き交う山のような荷物を背負ったロバ…。

あまり馴染みのない風景…、だがどこか懐かしいような空気。

行ったこともないモロッコの街並みが、ありありと目に浮かぶようだ。

おそらく著者は、このハードな行程を実際に辿って取材をしたのではないだろうか。

資料を読み漁るだけでは、あれだけの臨場感はとても醸し出せないと思う。

たとえばフェズの街は、革の染色で有名だ。

だがこの染色はとてつもない臭いを発するので、揉みほぐしたミントの葉を鼻孔に詰めないと、耐えられないらしい。

その鼻がひん曲がるような臭いの中の風景が、事細かに書かれている。

モロッコ

タイトルの水の音とは?

タイトルが最後の最後まで謎だった。

単なるイメージなのか…と思いもしたが、ラストページに謎解きが。

『砂の下深くを流れてゆく水脈の、涼しげな音。

それは愛しい者たちのからだを流れる血潮に似て、みずみずしく、力強く、命の鼓動と絡みあうように響き続ける。

僕はその音を聴く。

その音に、なる。

遥か深くを流れる水の音と一体になって、懐かしいひとたちのもとへ帰る。

ーー還る。』本文より

 

夜のサハラ砂漠、砂と月しかない無音の世界の描写は、ありとあらゆるものをそぎ落として、最後に残るもの…のような錯覚を起こさせる。

そこで初対面のラクダ引きの男に膝枕をする緋沙子。

何もない…、音もない。

そこここに周の気配がする。

モロッコ

満足感120%

ああ、小説を読んだ!…という満足感が半端ない。

サハラに到達するまでに、4人の旅人とガイドのサイードと周の魂が、少しずつ内省を深め、互いを受け入れ、自分の意志を確認していく。

その過程が、それぞれの視点から語られる。

そして超絶な皮肉屋のジャン=クロードでさえ、本当はとても柔らかい心の持ち主であることが、分かってくる。

人間って、愚かで、愛しい…としみじみ思わせる小説だった。

この記事を書いた人

Chikako

金沢市在住。バラとコーヒーとコーギーが好き。
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