ピアノとの出会いから、振り返ってみました。
私が生まれた頃、日本は高度成長期。
戦争の荒廃から立ち上がり、経済成長に湧いていました。
庶民レベルでの経済成長とは、欲しいモノを欲しいだけ獲得すること。
1950年代後半に三種の神器ともてはやされた、白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫は、1960年代半ばにはカラーテレビ、クーラー、カーの、いわゆる3Cにとって代わられます。
たった10年やそこらで、この成長ぶり。
爆発的なエネルギーを秘めた、すごい時代だったのだと思います。
その当時、女の子が生まれたらピアノ…というのが、流行っていたようです。
モノだけではなく、子どもの教育へもパッションが向かったんですね。
我が家もご多分に漏れず、私が生まれた年から、ピアノを買うために積み立てを始めました。
ピアノとはどういう楽器なのか、習熟するためにどれだけの鍛錬が必要なのか、そもそも、子どもはピアノに興味を示すのか…、そんなことはきっと何も考えず、時代の流れに乗ったのだと思います。
みんなが豊かなアメリカに憧れていた…と母は言います。
テレビや映画で垣間見る、アメリカの家庭。
広い家に、広い庭、たくさんの家電に大きな車、お父さんは、広い前庭を芝刈り機できれいに手入れして、お母さんは、大型オーブンのあるキッチンで、でっかいターキーの丸焼きを作る。
バックヤードには、フレンドリーな犬が放し飼いになっていて、窓から漏れ聞こえてくるのは、ピアノの音。
ウサギ小屋とまで言われる狭い団地暮らし(社宅)の身には、まぶしいほどの豊かさでした。
広い家や庭やターキーは無理だけれど、ピアノなら…、そんな想いもあったかもしれません。
かくて私が3歳になった時、我が家にピアノがやってきました。
時を同じくして、レッスンも開始。
同じ団地に同じ年ごろの夫婦に、同じ年ごろの女の子たち。
若いピアノの先生は、30分ずつ、団地内を何軒もはしごして、レッスンをしてくれました。
当時の記憶はほとんどありませんが、あまり楽しんではいなかったような…。
まだ指のコーディネーションも不安定な小さな手。
先生や親が望むようには、動きません。
1番の指で、2番の指で…といちいち指導されて、うまくできないストレスが募り、毎日の練習は、すっかり義務でイヤなものに。
頑張って月賦でピアノを買ってくれた親には申し訳ないけれど、実は私はバレエのほうがやりたかった…。
テレビで観た白鳥の湖に一瞬で魅せられて、なんだこれ、本当に人間?、なんだか分からないけれど、すごくドキドキする…と、夢中になっていました。
でも私に与えられたのは、バーレッスンではなくて、ハノンの繰り返し。
なんだかな…。
私の娘は、音楽教室でエレクトーンから始めました。
歌ったり、体でリズムをとったり、つたないメロディラインに、超かっこいい伴奏をつけてもらって、その気になったり、友達や親と連弾したり。
テキストも工夫されていて、まさに音を楽しむレッスンでした。
幼い頃は、ハノンじゃなくて、半分遊びながらのほうが、絶対いいな…と個人的には思います。
さて、来る日も来る日もハノンを繰り返し、指の訓練に明け暮れていた私には、何度も停滞期が訪れます。
その度に、大人側が手を変え品を変え、時にはご褒美なんかをぶら下げて、無理やり引っ張ります。
こういう周りの努力も、時には必要かもしれません。
でもそれは本人の中に、ちゃんと種火があればこそ。
核をなす「好き」がなければ、それは苦行にしかなりません。
そうして6年生になった時、コンクールに出ることになりました。
私は全然関心がなかったけれど、親と先生が勝手に決めて、1日3時間の練習を課してきました。
夏休みの林間学校も、そのために欠席。
つらかった…、あの夏。
結果は、もちろん惨憺たるものでした。
そもそも弾きたいというモチベーションがないのですから、いい音が出るわけがありません。
コンクールが終わってから、私は「辞めたい」と声を上げます。
初めは取り合ってもらえませんでしたが、「もう弾けない!」と訴え続けました。
「じゃあ、貴方が一人で先生に説明しに行きなさい。お世話になった先生に、そんなことが言えるの?」と母。
「月謝も浮くから、いいじゃん」と反発すると、「月謝なんて、ドブに捨てたほうがまし!」と母は青筋たてて怒りました。
母が手放したくなかったのは、憧れ…、人並み…、自分が実現したかったこと?
今なら、その気持ち、私にも理解できますが・・・。
大波乱の末、ピアノを辞めた私。
ほっとしました。
もう練習しなくていいんだ…と思うと、はあ~~っと安堵のため息が出ました。
to be continued.