ピアノとの関わりを振り返っています。
小6で辞めてから、中学の3年間、ピアノにはほとんど触りませんでした。
ですがこの3年で、私の生活環境は激変します。
中2の秋、父が病死。40歳でした。
それまで宮崎県延岡市にいた私たち親子は、金沢にある父の実家に引っ越します。
父はもういないのに、なぜ父の実家?・・・と思うでしょ?
そういう時代だったのです。
当時の嫁は、夫が亡くなっても、嫁という立場から離れられません。
母40歳、私13歳、弟7歳。
父の母、つまり私の祖母が一人で暮らす家に移り住みます。
心許ない暮らしが始まりました。
お約束のように勃発した姑嫁問題。
でもそこにクッションとなる父はいません。
祖母からは母の、母からは祖母の悪口を聞かされる日々。
転校したての学校にもなかなか馴染めず、鬱々としていました。
宮崎から運んできたピアノの蓋は、ずっと閉じられたまま、埃をかぶっていきます。
高校生になって転機が訪れます。
いろいろあって、高1の秋にインターナショナルスクールに転入することになりました。
その小さな学校は奈良県生駒市にあり、私はハワイ出身の小学部の先生の家に下宿することに。
15歳で親元を離れました。
小学部の先生は日系でしたが、日本語がほとんど通じず、料理も下手。
生のままのウインナーが出てきた時は、びっくりしました。(^^ゞ
そして英語の壁。
それまで英語は得意科目ではありましたが、それはあくまでも日本の学校の中でのこと。
全ての学科を英語で学ぶほどの実力はありません。
強烈な疎外感を感じました。
言葉が分からないから、この先私はもう一生、ジョークを言うこともできないんだ・・・と。
そしてホームシック。
そんな時、ピアノに気持ちが向きました。
私の下宿は歩いて5分でしたが、生徒たちは関西一円から通っているので、放課後はすぐに帰ります。
ひとりポツンと取り残されて、やることもなく、教室のピアノを弾いてみました。
ポロン、ポロン・・・。
ピアノって、こんなに優しい音色だったっけ?
寂しい心に、すっと染み入ってくる音。
4年も離れていたというのに、私の指は機械仕掛けのように正確に動きます。
これがあんなに嫌だったハノンの成果!?
ちょっと面白いかも。
英語ができないため、私を馬鹿だと思っていた生徒たちも、ピアノを弾くと、私を見直してくれました。
ちょうど校長先生の奥様、Mrs. Olstadがピアノの先生だったこともあり、レッスンを再開することにしました。
アメリカ人のMrs. Olstadは、けっこう大雑把。
日本のレッスンでは、段階を踏んで徐々にレベルアップしなければいけなかったのですが、Mrs. Olstadは私の弾きたい曲を、どんどん取り入れてくれました。
小さい頃から、ピアノ曲のレコードを聴いていました。
きれいな旋律が、いっぱいインプットされています。
訓練のためだけではなく、楽しんで弾く・・・。
「ちょっと難しいけど、弾いてみよっか?」
明るくてノリがよくてイージーゴーイングな先生は、私のピアノにあわせて歌ったり、踊ったり。
「もっと自由に歌わせて~~」と、技術ではなく、表現することを求めます。
ショパン、モーツァルト、メンデルスゾーン、ドビュッシー・・・、名曲たちと戯れました。
翌年、私は高槻市の宣教師宅に下宿先を変更。
そこには、同じ学校に通う2歳年下の女の子がいました。
彼女、Judyもピアノが大好き。
教会のピアノを取り合うようにして練習しましたが、学校のある生駒と高槻は片道1時間半もかかるので、通学に時間をとられます。
一緒に下校して、それから時間を分けるのでは足りず、先に帰ったJudyが自宅で練習し、私が学校に残って2時間ほど弾いて帰る・・・、そんな風にやりくりしました。
身近にライバル(?)が出現したことで、ピアノ熱はどんどんヒートアップ。
小学部の生徒にピアノを教えるバイトもしましたし、6月の卒業式では、毎年、2~3曲、披露させてもらいました。
Judyの家は教会だったため、毎週、日曜日の礼拝に出席し、やがてキリスト教の神様を信じるように。
聖歌の伴奏をし、お祈りや献金のBGMも弾きました。
そうしてピアノと再び縁を結び、英語もそこそこ上達し、卒業後の進路を考える時期がきます。
特にやりたいことはなく、将来の仕事についても漠然としていました。
とりあえずピアノが好きだから、ピアノの勉強を続けようか・・・。
安易な選択でした。
(卒業式にて。下宿先のお母さん・Ellen先生とJudyと一緒に)