誰かと自分を比べてしまうのは、自分のことを知らないから

『自分自身を知っている人は、他の人と比較をしない。

自分自身を知らない人は、他の人との比較の中でしか、自分をはかれない。』

by Buddha Program

 

自分は、一体誰なのか。

何が好きで、何が心地よくて、何を求めていて、何に夢中になれて、何に幸せを感じるのか。

それは人それぞれ違う、固有の特性。

だけど自分のことなのに、意外と知らない。

特に私たちの年代は、自分は何がしたいのか・・・なんて、あまり考えてこなかった。

家庭や社会の中で求められる役割を、ただひたすらにこなしてきた。

疑問を差し挟む余地も、ほぼなかったような・・・。

そんなもんだと教育されてきたのだから、ある意味、それも仕方がない。

自分よりも他人を優先する。

相手の身になって考える。

我慢することが美徳である。

・・・親に学校に社会に、そう教えられたことを、そのまま信じてきた。

辛いことや嫌なことも自分が我慢すれば丸く収まる・・・と。

個を押し殺し波風をたてない生き方。

和を尊ぶ社会では、それが正義だったのかもしれない。

だが時代が変わり、『好きなことだけして生きよう』とか、『我慢しなくてもいいよ』とか言われても、長年染みついた自分軸が曖昧な生き方のほうに、ついつい流される。

ましてや『あなたは何が好きなの?』なんて問われると、戸惑ってしまう。

だって私たちの行動や選択の基準は、役に立つとか、ためになるとか、成長につながるとか・・・、そういう『社会が決めた良きもの』をベースにしていて、楽しいからとか、面白そうだからとか、好きだからなんて動機は、不真面目と見なされてきたから。

だからね、分からないんだよ。

自分が何を好きなのかすら。

自分のことなのにね。

つまり、自分を知らないのだ。

そこで必要になってくるのが、比較対象。

誰かと比べて○○・・・という基準でしか、自分を測ることができない。

だけど人と比較しても、本当の自分は、結局、分からないまま。

スミレ

人は各々に個性化の傾向性がある。

こうなるもの・・・という種みたいなものを、元々内包している。

それは本来その人が備えている本質的なビジョンであり、人生のシナリオみたいなものだ。

個性化の傾向性に従って、なれる最高の自分になっていくのが生きる意味であり、そこに比較は必要ない。

比べるようなものではない。

比べられるものでもない。

それなのに、人は常に誰かと自分を比べて、ため息をつく。

 

たとえば、タンポポの種はタンポポの花を咲かせ、スミレの種はスミレの花を咲かせ、朝顔の種は朝顔の花を咲かせる。

タンポポはスミレが上品な紫色でいいなぁ・・・とは思わないし、スミレは朝顔が早起きで羨ましいとは思わないし、朝顔はアスファルトを突き破るタンポポのパワーに嫉妬したりしない。

それぞれただ淡々と自分の花を咲かせる。

種の時点から、こうなるものと決まっている方向性に従って、咲かせうる最高の花を咲かせることだけに、全エネルギーを注ぐ。

自分と他を比べることもしなければ、他の花に干渉することもない。

みんな自由に、咲かせるべき花を咲かせているだけ。

 

こういう生き方、よくない?

タンポポ

 

貴方の中の種は、どんな花の種なんだろうね。

 

この記事を書いた人

Chikako

金沢市在住。バラとコーヒーとコーギーが好き。
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