Rite of Passage ~香りと、音と、感情と~

半月の美しい晩、チェロとピアノのコンサートに出かけた。

会場は21世紀美術館、プールの底から空を見上げる展示が有名な美術館だ。

香りにちなんだコンサートとのこと、そういう選曲なのか、会場でアロマでも炊くのか…。

そんな薄っぺらい認識だったが、文化の日の前日になんだかいいかも…といそいそと美術館へ向かった。

まず受付で封筒を2枚渡される。

中にはグレーとピンクのマスク。
 Rite of Passage

人が集まる場所だから、”マスクしてね”ということかと思ったら、全然違った。

それぞれに違う香りを染みこませたシルクガーゼがついていて、ガーゼからマスクに香りを移す。

ミッドナイトブルーのガーゼは、丹後ちりめんの老舗が作った一品。

用意された香りは、ウッディフローラルな浄化の香りと、シトラスフローラルな開花の香り。

このコンサートのために調香されたオリジナルの香りだ。

プログラムに従って、マスクをチェンジする。

臭覚は脳に直結している。

つまり感覚をストレートに揺さぶるのだ。

これは音楽と香りで感覚を呼び覚ますコンサートだった。

 

主催者の小西敦子さんは、sensuousという言葉をよく使う。

sensuousな街とかsensuousな装いとか。

sensuousは、感覚的なとか、敏感なという意味がある。…官能的なという意味も。

私たちはこの2年半、行動を制限し、人との接触を減らし、マスクで顔をかくし、感覚を閉ざすような日々を強いられてきた。

それは自分の生き方を見直す、いい機会ではあったかもしれない。

だけどそろそろ眠らせてしまった感覚を起こしましょうよ…と。

Rite of Passage

小西敦子さんの挨拶の後、調香師・茂谷あすかさんが「香りと音楽。香りと今。」というタイトルでプレゼンテーション。

香りの歴史や、調香の方法など、膨大な情報をぎゅっと15分に詰めんこんでくれた。

人類は大昔から香りに魅了され、香りを追い続けてきた。

私はアロマも3種類くらいしか嗅ぎ分けられないけれど、その効能は日々実感している。

自分のために調香してもらった香りを纏うと、一瞬で気分が変わるから。

 

ちなみにコンサートのタイトルは「Rite of Passage」。

通過儀礼という意味だそうだ。

通過儀礼は誰にでも訪れる、人生の転機のようなもの。

よりしなやかに、より美しく、より芳しく生まれ変わるために与えられる経験とでも言えばいいかしら。

Rite of Passage

いよいよコンサート。

ますはグレーのマスクから。

浄化の香りに包まれて、ピアノとチェロの音に酔う。

チェロはキム・ソンジュンさん、ピアノは徳力清香さん。

何もないシンプルなステージ、スポットライトに浮かび上がる二人。

とても美しい絵面なのに、誰もステージを見ていない。

そう、みんな目を閉じて、香りと音楽に浸っていたから。

エルガー、サン=サーンス、バッハ、ドビュッシー、美しいチェロの旋律がピアノの音と絡まりながら、どこまでも広がっていく。

 

余談だが、グレーのマスクを付けるよう促された時、私たちはみんな、ちょっと慌てた。

客席の照明が落とされていて、グレーかピンクか判別できなかったのだ。

コンサートが終わって灯りがつき、間違えてないよね…とドキドキしながら自分のマスクを確認。

そしてそっと周囲を見回したが、誰一人として間違えていなかった。

暗闇の中でも、みんな浄化の香りを嗅ぎ分けて、ちゃんとグレーのマスクを選んでいたのだ。

さすが!

Rite of Passage
(画像提供:小西敦子さん)

後半はピンクのマスクに付け替えて、開花の香りに包まれる。

ウイルスの洗礼を受け、いったん全ての動きを止めた私たち。

忙しい日々の中、思いがけず与えられた空白の時間で、これまでの来し方とこれからの生き方に何度も想いを馳せたことだろう。

さあ、うずくまる時期は終わるよ。

要らないモノは手放して、心の澱も浄化して、そろそろ立ち上がろう。

そして新しい時代に向かって、自分を開いていこう。

チェロとピアノ、そして香りはそう語りかけてくる。

ホールを満たすスヴェンソン、ラフマニノフ、ピアソラ、アザラシヴィリ。

キムさんは、建物の中で弾いているのに、草原にいるように感じた…と仰った。

うん、そう。みんな身体はホールにいながら、感覚は宇宙に飛んでいた。

まさにsensuousで甘美な通過儀礼だった。

 

ミニシアターでのミニコンサートは、ホールの空間を遥かに越えて、浄化から開花へ向かう通過儀礼となった。

こんな体感を伴うコンサート、他にあるだろうか?

帰り道、煌々と輝く月を見上げ、余韻に浸りながら車を走らせた。

この夜、私が体験したのはなんだったのだろう…。

身体と脳髄に残る、痺れるようなこの感覚はなんなのだろう…?

美しい音楽を聴いた、香りの講義も受けた、芳しい香りも吸い込んだ…だけどそれだけじゃない。

演奏者と観客と主催者とスタッフ、その場にいた全員が溶け合うような場の力を肌で感じた。

これこそが、俗に言う”風の時代”の感覚なのでは?

 

実はブログを書きながら、グレーとピンクのマスクを交互につけている。

あの夜の記憶を確かめたくて。

 

この記事を書いた人

Chikako

金沢市在住。バラとコーヒーとコーギーが好き。
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