ピアノの断捨離にあたって、ピアノとの関わりを振り返っています。
ピアノとは直接関係ありませんが、大学時代の写真を探していて、ひとつ気づいたことがあります。
それはどの写真も、私が満面の笑みをたたえていること。
ものすごく楽しそうに、嬉しそうに笑っています。
ですがこの10年後くらいの写真は、どれも表情がすごく硬い・・・。
結婚して、子どもに恵まれて、幸せなはずなのに、大学時代のはじける笑顔はなりを潜めます。
断捨離トレーナー時代も、笑顔がひきつっていると、何度も注意されました。
こういう風に笑うのよ・・・と、師匠に口角を指で引き上げられたことも。
表情筋トレーニングを学び、自然な笑顔が出せるように努力しました。
日本に帰国して、いったい私に何があったのでしょう。
なぜ笑えなくなったのか、自分でもよく分かりません。
(同じ寮のみんな。本当はもっと背が高い。私にあわせて、腰をかがめてくれている)
それと悔しかった思い出をひとつ。
スピーチのクラスで、ビジュアルエイドを使った課題が出ました。
写真や図や模型を使ってのスピーチです。
当時はOHPでした~~~。OHP、知らない人もいるでしょうね。(^^ゞ
私が選んだテーマは、原爆でした。
でもこれ、ものすごい地雷だったのです。
私が訴えたかったのは、原爆の多大な被害についてであり、もうこんな愚行は絶対に繰り返してはいけない・・・というメッセージだったのですが、これが猛反発を受けます。
35年前の話で、今はもう違っているのかもしれませんが、当時のアメリカでは、戦争を終わらせるために、やむなく原爆を使ったのであり、日本人が全員玉砕しないために必要なことだった・・・と、学校で教えられていました。
クラス全員がそういう共通認識を持つ中で、日本人の私が原爆の話をするのはタブーもいいところ。
まくし立てるような早口の英語で、ガンガンやられました。
アメリカの正当性に、ケチをつけられたと思ったんでしょうね。
急先鋒だったアイツもまだ19歳で若く、自分の正しさに固執していました。
私には反論する英語力がまだなく、教授が助けてくれないかな・・・と視線を送るも、教授も困ったな・・・と苦笑いしているだけ。
悔しかった・・・。
自分の想いを、日本人の想いを、ちゃんと伝えられなかったから。
そして私は日本人でありながら、自分の知識が浅いことも敗因だと知りました。
帰国したら、必ず原爆資料館に行って、しっかり学ぼうと心に誓ったのでした。
さて、4年間の学生生活を経て、同級生たちは、アメリカ全土で、音楽教師になったり、教会のミュージックディレクターになったり、それぞれの道に踏み出しました。
私は・・・。
ビザの関係もありますが、アメリカでの就職は考えられず、帰国の途につきます。
4年ぶりの日本で待っていたのは、逆カルチャーショック。
自分が生まれ育った国なのに、なんだかちぐはぐで、どうやって振る舞っていいのか、戸惑いました。
久しぶりに会った友人には、目をじっと見て話すから怖い・・・と言われました。
遠慮の仕方も忘れてしまって。
日本では何かを勧められた時、2回は辞退して、3回目でようやく「いただきます」と言うのが常識と言われました。
一方アメリカは、「コーヒーいかが?」、「はい、ありがとう」というテンポ。
どうやって溶け込んでいけばいいのか、試行錯誤の日々が続きます。
ピアノも弾いてはいましたが、段々と熱が冷めていきます。
メキシコ人のリコーダー奏者、アグアヨさんと知り合い、ピアノとのデュオを練習したこともありましたが、人前で弾く機会はなくなりました。
ルームメートだったRobinは、「もうこの先、ピアノとは一生離れられない」と言いましたが、そうでもないかも・・・と私は感じるように。
地元企業に就職し、なんとか溶け込もうと努力するうち、教会とも縁が切れ、ピアノもただの置物になりました。
なんだったんだろう・・・、大学時代のあの熱量は。
「結局、ものにならなかった」という苦い想いに囚われます。
あの時、音楽は競うものではなく、楽しむものだ・・・と気づいていたら、もっと違う道はあったのだと思います。
トップレベルでなければ意味がない・・・とは、なんて浅はかな考えだったでしょう。
先日、訪れたホテルで、偶然ロビーコンサートに出くわしました。
シニアのデュオでした。
若い頃と比べれば、明らかに衰えが見える声。
でも二人は、そんなことは気にせず、とても楽しそうに歌っていました。
そしてそれを聴いている私も、とても楽しかった。
コロナで沈みがちになる心が、ぽっと華やぎ、知っている歌を一緒に口ずさんで・・・。
音楽とは、そもそもこういうものなのです。
技術の優劣を競う一面もありますが、音をメロディを歌を楽しむもの。
人生のスパイスですね。
ピアノを断捨離した今、初めてそのことに気が付くことができました。